第2章 聖女と魔女



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「義姉にはさすがにお話できませんでしたが、兄には確認を取りました。確かに、ローナに似た娘と交際していたことがあるそうです。尤も、殆ど忘れていたようですが」
「……ありがとうございます、フェルティアーナ様」
 リョローナの件は、もう妊婦やこどもが襲われることはないだろうとだけ、フェルティは兄に報告したらしい。自分の妻が狙われるのではないかと戦々恐々だった兄はそれだけで満足し、真相はうやむやになりそうな気配である。
「……今回のことは、私が主に取り仕切っていましたから、兄は殆ど存じませんし、恐らく、……兄が知ったところで、」
 徒労に終わるだろうということは、こずえにさえわかる。
「すみません、セルディナート様、それにエリオット」
 フェルティはそう言って、深々と頭を下げる。
「いいえ、フェルティアーナ様を責めるつもりはございませんから」
 そうして、全員が胸のうちに遣りきれなさを抱えたまま、その夜は終わるかのように見えた、が。
 リョローナの件でこれ以上はないほど疲弊したこずえに、更に追い討ちをかけるものがあった。
「セルディナートさまぁ」
 視界に侵入してきたのは、目に毒々しい色彩。
「――ヒルダ様!? どうしてこちらに」
「ディルカート様に会いに、セントソフィア家に伺っていたのですけれど、丁度フィラデルフィア家の手前で、供の者が魔物に襲われ身動きがとれなくなってしまったのですわ。ひとりでは道中不安なところもありますし……城まで護送してくださらないかしら? あなたがたはブルーメンブラットに行かれる途中だと聞いています。ブルーメンブラットを目指すということは、当然、港町フィオーレに向かうのでしょう? 王都とフィオーレはほぼ同方向ですし、さほどの負担にはならないと思います」
「え、ええ、わかりました」
 相当の身分にある女性なのだろうが、余りにもわかりやすすぎる圧力をかける女性に、こずえの目が点になった。
(ヒルダ様だ。ディルカート兄上の許婚で、現国王の妹でいらっしゃる)
 彼女の切れ長の瞳の色は紅、うねりながら腰にまで流れおちている髪は、つやのある栗色。派手な化粧は攻撃的な印象さえ与える。豊かな肢体を強調するかのようなドレスを身にまとい、大胆に開いた胸元からは、蠱惑的な谷間が覗いていた。
 思わず銀色の男性陣を見ると、セルディは密着されながらも(胸を腕に押し付けられているように見えるのは気のせいだとこずえは自分に言い聞かせた)、胸元を直視しないようにしているし、エリオットの視線も斜め上を向いている。
(……う、)
 ヒルダから漂ってくる香の余りの強さに、思わずこずえは手で口を覆った。
(このひとあれだ、香水を全身に振り掛けるタイプの人だ……!)
 こずえの引き具合を見て取ったのか、エリオットがぼそりと本音らしきものを吐いた。
(俺も、あのひとは苦手だ)
(……うん、わかる)
 心の底から同意して、隣のフェルティを見ると、ヒルダを前にして困ったような笑みを浮かべていた。
 やがてセルディから離れたヒルダは、まずフェルティに向かい合った。
「お久しぶり、フェルティアーナ。元気にしていたかしら?」
「ええ、おかげさまで。ヒルダお姉様もお元気なようで、なによりです」
「エランディール様も、ご無沙汰しておりましたわ」
 ふたりとしばらく楽しそうに会話を交わした後で、やっとこずえの存在に気づいたらしいヒルダは、緊張するこずえを上から下まで隈なく眺めて、すっと、無表情になった。

「なんですの、これは」

 剣呑な雰囲気を感じ取って、こずえは意識して無表情になった。
「どなたか教えていただけるかしら。こんな、明らかにこの国のものではない人種が、なぜフィラデルフィア家にのうのうと存在しているのか」
 こずえを無視する形で残りの面々に問いかけるヒルダに、セルディが執り成すようにして答えた。
「彼女は、われわれの協力者なのです、ヒルダ様」
 そうなのと呟いた声も、冷え切っていた。
「どんな妄言でセルディナート様たちに取り入ったのか知りたくもありませんが――あたくしの目を誤魔化せると思わないことね、平民」
 見かねたセルディが間に割って入るが、ヒルダは態度を改めようとはせず、汚いものでも見るような顔つきで、こずえを眺めていた。
「醜い子だこと。なぜこんな醜悪なものがこの世に存在するのか、わかりかねるわ」
 悪意にまみれた声。さすがに強引にでもこずえをこの場から引き離した方がいいかと考え始めたエリオットは、隣の少女に視線を移して、目を、見開いた。
 漆黒の瞳には、何の感情も浮かんでいなかった。こずえは、どんな感情を表すことも拒否して、まったくの無表情でヒルダを見つめていた。
 反論もせずにじっと見据えてくる瞳。反応がないことに飽きたのか、ヒルダがセルディの腕を取って部屋を出て行く。
 エリオットはしばらく残るべきか迷っていたが、同性のフェルティに任せることを選択したらしく、黙って部屋を出て行った。
 フェルティは少しの間こずえの様子を窺った後、慎重に口火を切った。
「あのふたりのことだからなにも言い訳をしないでしょうけど、ヒルダ様は王家に連なる方だから――セルディナート様にも、ましてエリオットでは、面と向かってお諫めすることが難しいの」
 だから、ごめんなさい。そう続けると、ようやくこずえがこちらを向いた。ほっとしたフェルティはそのまま言葉を紡ごうとしたが、言葉が、出てこなかった。
「なんのこと?」
 いつものように、穏やかな――けれどなんの感情も宿らぬ笑みを浮かべて、こずえはフェルティの謝罪を根底から封じた。無言の拒絶を感じ取ったのか、フェルティはそのまま押し黙る。
「フェルティ、疲れてるでしょ。そろそろ寝たら?」
「――コーディは?」
「私は、もうちょっとしたら寝るよ」
 にっこりと笑う。そうして、こずえも部屋を出た。
「だいじょうぶ、だ」
 零れた呟きは、何よりも自分に言い聞かせるためのものだった。
「大丈夫」


――そう、わたしは傷ついてなんかいない。わたしは歩くことができる、前に進むことができる。歩き続けなければ。だって、傷つき倒れたって誰も手を貸してはくれない。誰も守ってなんかくれない。だったらわたしが強くなるしかない。強くなって、ひとりでも生きていけるように、ならなくては。






 深夜に近い時刻、やっとヒルダを振り切ったセルディは、宛がわれた部屋の中で、エリオットと向かい合っていた。
「……しかし、驚いたな。コーディリアは、いったい過去になにがあったんだ」
「……存じません」
 顔をわずかにうつむけ、少年は答える。彼こそ知りたかったことだったから。
 物わかりのいい、聡い少女だと思っていた。飲み込みはいいし、精神年齢も高い。きっと苦労をしてきたのだろうとは思ったが、――しかし、昼間の彼女の態度は、はっきりと異常だった。
「年の割に大人びすぎている。まるでヒルダ様がこどものようだった」
「言葉の意味が分からぬほど暗愚なわけでも、怒りを隠している風でもありませんでした。あの時のコズエは、まるで――諦めてしまっているようでした。すべてを」
 諦めているのだとしたら、説明が付く。一度も自分の運命や境遇に不平を漏らしたことがないのも、泣こうとも喚こうともしないのも。なにも望んでいないのなら、不満も生じないから。
「あの年ではよほどでないかぎり、自己否定の言葉にはなにかしらの怒りや、悲しみといった感情を表すはずだ。だが、彼女は、それすら通り越してしまったように思える」
 兄の言葉を聞きながら、エリオットはしばし思いを廻らせた。
 きっと、痛いと感じてもそれは本当ではないと嘘で誤魔化して誤魔化して限界をどこまでも引き伸ばして、そうして彼女は、ひとりで生きていこうとしているのだ。恐らく、誰にも頼れなかったから、誰も彼女に手を差し伸べなかったから、彼女はひとりでおとなになるしかなかったのだ。
 そうして無理をしておとなになっていくのは、いったいどれほどの痛みを伴ったことだろう。
 彼女が笑うのは拒絶だ。これ以上踏み込まないでくれという懇願だ。それほど苦しんでいることに、今まで気づけなかったのは。
(……隠そうとしているんだ)
 記憶に残っている表情の中でも笑みの印象が強い少女。妹と同じで、無邪気な性格かと何とはなしに思いこんでいたが、その新たな一面を知った思いで、エリオットは深い溜め息を吐いたのである。

 エリオットが部屋を出ると、フェルティと出くわした。いつになく真剣な顔に、彼女も同じ用件でやってきたのだろうなと察しがついた。
「コズエがどこにいったか知っているか」
「さきほどは三階にいたけれど。まだ、眠っていないはず」
「お願い、エリオット。わたしじゃコーディに踏み込ませてもらえなかった」
 振り返った先にあるのは揺れる翡翠。それに頷きを返して、エリオットは階段を登っていく。





(いま、なんじだろう)
 こずえは、人気のない三階を歩いていた。あくまで自室の周辺、明るく照らされたところだけだから、問題は少ないはずだ。
(……わかっては、いるつもりだったんだけどなぁ)
 必ずしも、自分がどこでも誰にでも受け入れられる存在ではないということくらい。
 それでも、面と向かって悪意をぶつけられるのは、想像以上に痛かった。
「……はは、そろそろ寝なきゃな」
 いいつつ、廊下の突き当りを曲がると、こずえの視界に、色鮮やかなものが飛び込んできた。
「わ、」



 それは、三枚からなる一続きの絵だった。



 一枚目は、龍のそばで不安げな表情を浮かべる娘。
 二枚目は、手勢を連れて城を発つ騎士。
 そして三枚目は、騎士が龍の首を討ち取ったところだった。



 幾重にも絵の具を塗り重ねて描かれた絵は、とても美しく、また精緻だった。絵自体が今にも物語を語りだしそうに思えて、こずえは僅かの間息を詰めた。
 見たところ、龍に攫われた姫を救い出した騎士のものがたりであるらしい。若い娘に好まれそうな話である。
「……コズエ?」
「あ、ごめんなさい。勝手に入っちゃって。怪我、もう平気?」
 いつのまにか背後に来ていたエリオットに気遣いの言葉をかけると、彼は短く「ああ」とだけ返してこずえの隣に並んだ。
「気に入ったのか?」
「え? うん。凄くきれいな絵だな、って。元になったお話とか、あるのかな」
「あるもなにも、この地方に昔から伝わる話だぞ」
「聞きたい」
「……昔、この地方のある貴族の屋敷で、一組の夫婦が暮らしていた。その夫婦は仲睦まじく暮らしていたんだが、結婚生活を続けていくうちに問題が生じてきた」
「問題?」
「跡継ぎができなかったんだ。しかも五年のあいだ」
「夫婦は思いつく限りの方法を試したんだが、一向に妻が懐妊する兆しを見出せなかった夫は、当時その国を守護していた神龍の元を訪ねた。夫は神龍に、妻とのあいだに跡継ぎができるように懇願した。そして、神龍は承諾したんだ。条件付で」
「条件?」
「もし娘が生まれたら、その娘が十八歳になった折に、神龍の花嫁とすること。龍は、娘に何一つ不自由のない暮らしをさせることを約束した。夫は悩んだんだが、結局その条件を受け入れ、妻の元に帰った。ほどなく妻は懐妊したが、生まれたのは女子だった」
「娘が健やかに成長し、あと数か月で十八になると言うころだった。夫婦はどうしても、娘を龍ではなくふつうの人間の下に嫁がせたいと考え、そのための策を練った。そして、一つの結論を出した。――十八になる前に、どこかの家に嫁にやってしまえばよい、と」
「いやいやそんなに簡単にいかないでしょうに」
「それが上手くいったんだ。その娘はとてもうつくしかったから。だから夫婦は、さっさと婚姻の準備を進め、その間娘を屋敷の近くの塔で生活させていた。立ち入るものは夫婦だけ。日に三度の食事も妻が自ら運ぶという徹底振りで、龍が娘に手出しできないようにした、筈だった」
「……筈だった?」
「結婚式当日になって、娘を迎えに行った夫は、塔の中がもぬけの殻であることに気づいた。だが、夫はもうずいぶんと年を取っていたから、とてもではないが龍の塒にまでいって娘を取り返すことはできなかった」
「え、じゃあ、……どうしたの?」
「夫は、娘の婚約者に、娘を取り戻すように依頼したんだ。婚約者は快諾して、手勢を数多連れて龍の塒に向かった」
 こずえは思わず壁の絵を見た。大勢の部下に囲まれた婚約者は、自信に満ち溢れているかのように見える。
「婚約者は手早く龍を討ち取り、娘を連れて帰った。それからふたりは幸せに暮らしたと、そういう筋書きだ」
「……」
 こずえは黙って、三枚目の絵を見詰めた。
 龍の首を掲げて姫に微笑みかける婚約者を、姫を含め大勢の人々が、歓喜と恍惚の表情で見上げている。
「コズエ?」
「龍が、」
「うん?」
「龍が気の毒だなぁって、そう思って」
 龍はただ、働きに見合った報酬を求めただけだ。娘を手放すのが嫌なら、夫は拒否するか、せめて交渉をするべきだったのだ。
「するべきことをしなかったんだから、娘を取り返しただなんて、胸を張って言えることじゃないのに」
「……面白いな」
「は?」
 まったくの無表情で発せられた言葉に、こずえは思わず半眼になる。
「いや、全く面白くないよね」
「コズエの考え方が面白いといったんだ。……やはり、違う世界から来たんだな」
「どういうこと?」
「この世界の者にとって、身分は至上のものであり、人間は至高の存在だ。……喩え道理が通らなくとも、この話を聞いたものは、夫婦のほうに同情するのが普通なんだ」
 エリオットが言いにくそうにして続けた言葉に、ああそのために彼は来たのかと納得した。
「たぶん、こういうことは、これからも度々あると思う」
「そうだろうね」
 冷めた口調で同意する。
「これまでが幸運すぎたんだよ」
「……」
「だってこの世界には身分がある。身分が無いに等しい私が、エリオットやフェルティと普通に話せているだけで、破格の待遇なんでしょう」
「……コズエの世界には、身分がないのか?」
「少なくとも私の国では、身分は殆どないといっていいと思う。……でも人間は、些細な違いを見つけて他者と自分を分けようとするから、結局はこの世界と変わらないのかもしれないけど」
 絵を眺めて、こずえは嗤う。ああ、ひとは、なんて醜い。
 こずえの纏う雰囲気がいつになく厭世的なのに気づいているのかはわからない。だが、エリオットは随分と躊躇した後に言った。
「気をつけたほうがいい、コズエ」
 ゆっくりと紡がれる言葉は、警告となって、こずえを縛る。
「お前の考え方は、この世界でははっきりと異質だ」
「……うん」
 わかっている。自分を好意的に見てくれる人は少ないだろうということは。
 小さく同意を返して、こずえは、ああと思い当たる。
「そういえば、寝ようと思ってたんだ。おやすみ、エリオット」
「……ああ、おやすみ」
 エリオットは僅かに逡巡した後、結局それだけ言う。こずえはそんな彼にひらひらと手を振り、自室へと戻っていく。
 襲ってきた眠気に支配されつつある思考の中で、こずえはぼんやりと考えた。





 自分より、遥かに身分に縛られた考え方の中で、育ったであろう彼は。
 いったいどうして、自分と似通った考え方をしているのだろう。










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