第2章 聖女と魔女



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 彼女が仕えていた少女が、婚約者とその弟と共に茂みの背後から姿を現した。弟が表情を険しくしているのに対し、兄のほうはいつでも少女を守れるような位置に立って静観するそぶりを見せている。
 少女はその儚げなかんばせに相手をたじろがせるほどの厳しい表情を浮かべて、彼女と対峙した。
「あなただったのね。まさか、侍女だと思っていたものが魔物だったなんて、まったく考えてもみなかったわ。……妊婦や母親を好んで殺す水棲の魔なんて限られている。そこに思い至らなかったのは、わたくしの落ち度だわ。ねぇ、凶魔リョローナ。ひとを水際に誘い込んで殺すという伝承の魔」
「それがどうしましたか?」
 言うなり、影は――ローナは、素早くアリスを突き落とそうとする。だが、眠りかけていたはずのアリスが傍にいないことに気づき、はっとする。
 うろたえて左右を見回すと、背後から声がした。
「危ない目に遭うとわかっていて、わざわざ妊婦を簡単に連れ出せるようなところにおいておくと思う? 本物のアリスは、アルバートとともに、屋敷の中にいるよ」
 そう言ったのは、さきほどまでローナがアリスだと思っていたもの。彼女は、ローナの手の届かない位置に立って、微笑した。
「お前は?」
 誰何の声に、偽アリスは場にそぐわない笑みを浮かべる。
「気づいたみたいだよ、フェルティ」
 言って、アリスー―いや、彼女ではない誰か――はにこりと笑う。その顔がするりと流れ落ちたかと思うと、下から全く別の顔が覗いた。
「私はコーディリア・ルイン・クシュカート」
 先ほどまでとは打って変わった少女特有の澄んだ声でそう言う。彼女の役目は、体格が同じくらいのアリスに成りすまして、ローナ――というか犯人を、本物のアリスに危害を加えられないようなところまで誘導することだったのだ。
 罠を張った後に、身代わりを頼むことになるからとエリオットに指示を出されていたのだ。アリスは自室から遠く離れた場所で眠りに就き、フェルティに髪と眼の色、それに声音を変える幻惑の呪文をかけてもらったこずえが、入れ替わりに彼女の部屋で寝台に横たわっていたという次第だ。
 しばらく沈黙が続いた後、フェルティが口を開いた。魔物と向き合っているという恐怖もあるのだろう、唇を小刻みに震わせながら、それでも毅然とした声で言葉を紡ぐ。
「私は屋敷に戻ったら直ぐにこのことをお父様とお兄様に報告申し上げます。大人しく屋敷に戻りなさい。事情によっては罰を軽くすることも出来ますわ」
「ふふ」
 場違いな笑い声は、しかし、その場の全員の動きを止めてしまうほどの狂気に満ちていた。怒りをその瞳に宿して、ローナはフェルティを睨みつける。
「家の恥になると判っていても、それができるのか? あなたの尊敬する兄が、そもそもの元凶と知っても?」
「……どういうこと?」
 意表を衝かれたらしいフェルティが眉根を寄せると、ローナは薄く笑みを浮かべて語り始めた。
「知らぬようだ。これだから、貴族というものは嫌いだ。どこまで行っても自分本位。虫唾が走るが、いい機会だから教えてやろう。あなたの兄が、私に何をしたのか」
 自分はアルバートに魅了されたおんなの一人なのだと、ローナは語った。
「腸が煮えくり返ることに、そのときまだ若かった私は、あの男が腹の底に何を隠し持っているのか一顧だにできなかった。まだ恋人というものがいなかったこともあって、あの男の甘言にうかうかと乗せられ、全てを許してしまったのだ。そのような関係が一年半ほど続いたある日、私は、自分が妊娠していることに気がついた」
 私は何も、正妻にして欲しかったわけではない、とローナは呟いた。
「ただ、お腹の子と私が生きていくための、最低限の保護が欲しかっただけだ。それさえもらえるなら、こどもの素性は隠しておこうとさえ思った」
 だが、そんな小さな望みさえも叶わなかったのだ。
「今から二年前、丁度今頃のように、寒風が身を切るような、寒い冬の朝だった。私は、あの男に自分が身ごもっていることを告げた」
 一呼吸置き、ローナは感情の籠もらぬ声で続けた。
 アルバートは、おめでとう、とローナに笑顔で言って、そして。
「笑顔のままで、あの男は私を川の中に突き落とした」
 冬の川はローナからどんどん体温を奪っていき、着衣も水を含んでしきりに彼女を水底へ引きずり込もうとする。
「助けてくれと、わたしはあの男に懇願した。無様でも何でも、わたしは子供を生みたかった」
 だが、アルバートは笑ったまま、ローナに背を向けたのだと言う。
 こずえは目を瞠る。魔物と言うからには、ローナは、人間の皮をかぶった、人間とはかけ離れた生き物だと思っていた。けれど、ローナの言い分は、まるで。
「あなた、元は人間だったの……?」
 震えるフェルティの声に、ローナは笑って、そうよ、と返す。
「人間として生まれ、人間として生き、人間として死ぬはずだった。現に、水に溺れてあの日私は死んだのだから。けれど、あの男にされたことの恨みが、一度は死んだはずの私を、魔物として甦らせてしまった」
 そうと気づいたときの絶望といったら!
「魔物の寿命は長く、また滅多なことでは死ぬことはできない。わたしに、もはやまともな人間としての生を送ることは不可能だった。死のうとして水に潜っても、人間であった私の命をああも容易く奪った水は、わたしを残酷にとりまくだけだった」
 そうして、水辺で茫然としていたローナは、ある日、赤ん坊を連れた若い母親を見つけたのだという。
 自分が抱けなかった赤ん坊を、このおんなはいかにも幸福そうに抱いている。その思いは、ローナを狂気の道に向かわせるのに十分だった。


――すみません、私の赤ん坊を見ませんでしたか? さきほどまで一緒だったのに、逸れてしまって……
 泣きながらそう訴えると、純真そうな若い母親は、すぐに同情してついてきたという。
――こっちです。このあたりで。
――どこ?
 赤ん坊を抱いたまま、ざぶざぶと水に入ってきたおんなを、ローナは巧みに、川の深みへと誘い込む。
――そう、そこよ!
 おんなの足をつかんで、川の深く深くまで引きずり込む。最初のうちは抵抗に遭ったが、水底について見てみると、おんなは赤ん坊もろとも帰らぬ人となっていた。


「そして、気がつけば、」
(やめて、)
 耳を塞ぎたい。
「気がついたときには、ふたりの亡骸を喰らっていた」
 脳を直接揺さぶられるかのような衝撃。喉に酸っぱいものがこみ上げてきて、こずえは思わず木陰に走りよって胃の中のものを吐き出した。一旦吐き出しても、不快感が後から後からこみ上げてきて、どうしようもない。
「……遺体が白骨化していたのは、そのせいか?」
「そのとおり。ひとの体はとても美味で、それから私は、幼い子供や若い母親を見つけるたびに、水際に誘い込んでは殺していた」
 ローナは、微笑みながら話を続ける。エリオットでさえ、その異様さに一歩退いて狂気に侵されたおんなの告白を聞く。
「そのままどれほどの時が過ぎただろうか。ある日、若い男が何人も、私の潜む川の傍にやってきた。私は水の中に隠れ様子を伺っていたのだが、彼らの話から、あの男が妻を得て、その妻が出産間近だと言うことを知った」
 ひゅっとフェルティの口から息が漏れる。にいさま。声にならない声で、翡翠の瞳の少女は呟いた。
「だから私は、復讐の念に駆られ、侍女として、再びあの男の元を訪れた。だが、」
 ふうと一呼吸おいたその顔に浮かんだのは、悲しみだったのだろうか。
「私を見ても、あの男は何の反応も示さなかった。それで気づいた、私は、あの男の数多の遊び相手のうちの一人に過ぎなかったのだと。――私にしたことは、あの男にとってなんでもないことだったのだと」
 言葉を切って、今度はこずえに視線を移した。あまりの迫力に、こずえは立ち竦む。
「ねぇ、どうして?」
 いっそ甘やかといってもいいくらいの声音に、こずえは戦慄した。
「どうして、私が産めなかった子供を、アリスが産んでしあわせな家庭を築こうとしているの? 私は誰より彼を愛していたのに。ねぇ、」
 どうして?
 純粋な問いが、こずえに突き刺さる。
「どうして、邪魔をするの? 私はただ、正当な報復をしたいだけなのに」
 こずえは動けないままだったが、俯けていたローナの口角が嫌な感じに吊り上ったのに、いち早く気づいていた。
「邪魔を――するな!」
 こずえに向かい放たれた氷刃。氷刃を避けようとしたこずえは、足元がひどく不安定なことに気づく。
「きゃ、……あ、」
 一瞬で我に返ったエリオットが素早くこずえとローナの間に割って入る。だが、捌ききれなかったエリオットの脚に氷刃が食い込んだ。僅かに顔を顰めた彼は、こずえを振り返って叫ぶ。
「兄上とフェルティアーナの傍にいろ!」
 慌ててこずえはフェルティの横に避難する。
 ローナは舌打ちをして、今度は、巨大な氷塊を空中に出現させた。
「その出血で、いつまでもつことやら」
 最初のうちは身軽に氷塊を避けていたエリオットの動きは、しかし確実に鈍ってきている。脚から血が止め処なく流れているのだ。量からして、恐らくだが動脈を切っている。こずえは必死に頭を回転させた。
(このまま出血が長引いたら……。だけど、私が攻撃に加わったとしても邪魔になるだけだ。でも、悪魔ほどではないとしても凶魔もかなりの力を持っているんだよね。だとしたら、セルディさんが加わっても退治は難しいんじゃ)
 考えても考えても答えが見つからず、唇を噛み締めたそのとき。
(え、)
こずえの頭の中に突然声が響いた。若い女の声だ。





――強く思いなさい、あなたの願いを





 その声の主が誰なのか、こずえには考える暇がなかった。ただ、自分はどうすればいいかということだけを考えていた。
(願い、願い……それなら!)
 目の前ではローナがナイフで自分の腕を切りつけ、詠唱を始めている。赤い液体が空中に舞い上がり、くるくると螺旋を描いているところを見ると、血液を用いた魔法だろうか。エリオットが苦しげに顔を上げた。
 すうっと息を吸い込み、意識を集中させる。きっと前を見据え、願いを心の中で吟味する。
「深く、総ての命を抱く海、その中に住まう水の神、オンディーヌよ、己が力を以って、我に仇なす者を消し去れ」「癒しの風を以って大地に花咲かす風の神、シルフィードよ。己が力を以って、呪われし氷を払え」

 エリオットとローナの声が重なった瞬間、こずえは心の中で叫んだ。



(エリオットを助けて!)



 瞬間、突風が吹いてこずえの髪と服を舞い上げた。こずえは目を見開く。
 一瞬前まで辺りには風も吹いていなかったのに、風がまるで一つの意思を持った空気の流れのようになって、ローナに向かって押し寄せていく。彼女の創りだした無数の氷刃が、彼女に肉薄していく。詠唱を終えたローナは驚愕した顔でその様を見ていた。
「どうして!」
 空気を切り裂いてこずえの心臓に直接届くかのような悲痛な声。こずえは耳を塞ぎそうになるのを、視線を逸らしそうになるのを、懸命に堪えた。
「あと、少しだったのに! あと少しで――私を醜い魔物へと変えたあの男への復讐ができたのに! 神はそれすら、私にお許しにならないのか!」
 ざくざくと、音を立ててローナの体に氷が突き刺さってゆく。見ていられなくて目を瞑りたいのに、目の周りの筋肉が麻痺したかのようにいうことを聞かない。おんなの体から血が流れ出る。
(やめて、もう、)
 この光景から目を逸らしたいと、こずえが強く思ったそのとき。
 ぱぁ、と閃光が迸った。
 こずえははっとしてローナのすぐ頭上に目を向けた。――ローナの出血は止まっていた。
「!」
 淡い光に包まれた、幼い少年。
 それは、かつてこずえとであい、助けを求めてきた彼だった。
 少年は、茫然として、もはや碌に周りのものが見えていないような状態のローナの前に回り込むと、静かにその腕を取った。くちびるがゆっくりと開く。

 も う や め よ う 。 か あ さ ん

 ローナは、少年の声にはっとしたような顔になり、――やがて恐る恐る、彼の背中に腕を回した。
 実体のないからだ。けれどもローナは、少年がここにあることをはっきりと感じたらしく、そのままぎゅっと少年を抱きしめた。

――ありがとうございます

 顔を上げれば、少年が真っ直ぐにこずえをみていた。

――母さんは、余りに多くの罪を犯してしまったし、僕も母さんを止められなかったから、これから僕らはまず、その罪を償わなきゃならない。それでも、母を助けてくれて、本当にありがとうございます

「     」
 こずえは口を開いて、何も言えないまま閉じた。そのままくちびるを噛み締める。
(わたしは、なにもできなかった)
 エリオットが傷つくのを、指を咥えて見ていることしかしなかった。
「そんな笑顔を向けてもらう資格なんて、ないのに」
 ぼそり、と呟くと、不思議そうな顔でフェルティが見詰めてくる。セルディも似たような反応を示しているのを見て、ようやく少年の姿は自分にしか見えていないのだと悟った。

――さよなら

 少年が軽く手を振る。彼を抱きしめているローナの目から涙が一筋零れ落ちたのに気づいて、こずえは顔を歪めた。あぁ、なんて、救われない。
 ローナの姿が、少年の姿が薄らいでいく。少年が擦ると、ローナの体に突き刺さっていた氷刃が、するすると溶けていく。ローナは最後に、確かに微笑んで、そして。
「……終わった」
 静かにセルディが呟く。親子がいた辺りには、もう何も残っていない。さぁ、と冷たい夜風が、彼の銀色の髪を攫った。
「フェルティアーナ様、事後処理を」
「――ええ」
 セルディとフェルティが、素早く踵を返して去っていく。
「……帰ろう、コズエ」
「うん」
 気遣う声に、こずえはやっとのことで、ローナがいた辺りから視線を外して、屋敷に向かって歩き始めたけれど。





 どうしようもない苦さは、胸の中に残ったままだった。









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