第2章 聖女と魔女



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 こぽり、こぽこぽ。こぽり、こぽこぽ。

(どうして、)
 ついさっきまで肺を充たしていたはずの空気は、今や殆ど残っていない。おんなは懸命に遥か頭上の水面を目指そうとしたが、水を吸って重たくなった服が体に纏わりつき、思うように動けない。
 がぽっ。
 無理に上に行こうとしたからか、一気に水を飲んでしまう。意識がどんどん暗くなっていくのを感じながら、おんなは絶望の表情を浮かべた。

(どうしてわたしが死ななければならないの)





「着いたぞ」
 自分のそれよりずっと低めの声に、こずえはうとうとしていた頭を上げた。
「わぁ」
 大きい。第一印象はそれだった。エリオットのいた屋敷も大概大きいとは思ったが、ここまで来ると茫然を通り越して感嘆の念さえ覚えてしまう。門から玄関まで随分と離れているから、仔細な様子はわからないものの(というか門の手前にいるのに玄関が見えないのはどういうことだ)、門の装飾といい、ずいぶんと絢爛な印象を受ける。
「大聖堂じゃないんだねー」
「大聖堂?」
「あ、気にしないで。にしてもこの周辺穏やかだね」
 こずえはエリオットと共に、馬車で三日の距離を移動に費やしたが、それだけの距離を移動しても、周りの景色は余り変わらなかった。強いて言うなら郊外から少し都市部に来たという感じだが、羊や牛のような動物が闊歩している辺り、まだまだ長閑だという感じがする。馬車に乗ることは初めてのこずえだったが、動物園くらいでしかこれらの動物を見たことがなかったので、眺めるだけで随分道中を楽しめた。
 最初は馬車の揺れが大きいのに戸惑っていたこずえも、もうすっかり慣れて、昇降もエリオットの手を借りずに行えるようになった。
「ノルテ地方って、大体こんな感じなの?」
「そうだな……ここら辺は本当に穏やかな場所だが、南のベルク山脈の向こう、スゥド地方に首都リディアがあるから、そこに向かって段々と賑わってくるし、一概には言えないな」
「ふぅん」
 こずえがたんっと地面に降り立つと、御者が鞭を撓らせて、あっという間に馬車が音を立てながら動き出す。
「あれ、お金は?」
「俺専用の馬車だから、給料に組み込んである」
 なるほど、そういうものかと感心しつつ、こずえは軽く伸びをする。
「お父さんとお会いするんだよね? で、ブルーメンブラットにいく許可をとる」
「そうだ。……おっと、忘れるところだった」
 エリオットは束の間眼を閉じて、なにやら思い出しているかのような動作をした。
「……コズエは、クサカコズエがフルネームだったよな?」
「うん、そうだよ」
「コーディリア」
「は?」
 唐突に発せられた人名に、こずえは眼を丸くする。
「コーディリア・ルイン・クシュカート。これからはそう名乗ってくれ」
「リア王ですか……いや、そうじゃないそうじゃないよ。いったいなんで?」
「クサカ コズエ、これじゃ短すぎるんだ。この国では基本的に身分が高いものほど名前が長いから、コズエだけじゃ余りに貧相だし、まず平民だと思われる。侍女だと言えばそれでも通るが、侍女と主人が対等に話していたら、間違いなく猜疑の目を向けられる。要らない面倒を避けようと思ったら、お前が貴族の名前を名乗るのが一番手っ取り早いんだ」
「判ったけど、それって身分詐称じゃ」
 戸惑うこずえに皆まで言わせず、エリオットは澱み無く言葉を紡ぐ。
「だからオリエンタルの子爵家出身という設定にする。彼の国は特定の国としか貿易をしないし、エアスト大陸で交易をしているのは北のグランだけだから、襤褸も出にくいだろう。公式の場では出来るだけ傍にいるようにするが、疑われたと思ったら直ぐに俺を呼んでくれ」
「なるほど。ってわたし、自己紹介の仕方とか全然わからないよ?」
「後で教える」
「あと、もひとつ聞いておきたいんだけど、エリオットって貴族だよね?」
「まぁ、そうだが」
「セントソフィア何家? さすがにこれぐらいは知っておきたいんだ」
「……公爵家」
「わぉ」
 こずえは眼を丸くする。どうやら彼についていけば路頭で頓死するのだけは避けられそうだと思ったからだ。
「へー、じゃあ公務とか大変なんだ。前にも言った気がするけど、領地を持ってるなら、治水とかも必要だし」
「変わった感想だな」
 遠慮のない物言いにすこし腹が立ったものの、門が近くなってきたので、こずえはそのまま口を閉ざした。





 エリオットが父に挨拶にいっているあいだ、こずえは部屋で待っていた。だがあまりに待たされる時間が長い。
(少しくらいなら、平気だよね)
 ただでさえ、陽光がぽかぽかと辺りを照らしているのである。しかも、貴族の屋敷なんて、この機会を逃したら二度とお目にかかれないかもしれない。好奇心に負けて、こずえはそっと部屋から外に出る。門に立っている見張りらしき人物にも見咎められることはなく、一瞬自分の格好が貧相だからかと哀しくなったが、気を取り直して庭に一歩踏み出した。


「わぁ……!」


 見渡す限り、ひとも家もない。あるのはよく手入れされた庭園だけだ。鮮やかな花が、ともすれば殺風景になりがちな冬の庭に華やぎを添えている。
 こずえはあまり花の名前を知らないけれど、藤色の小さな花はエリカ、目に鮮やかな黄色はクロッカスだ。慎ましい白はスノードロップだろうか。もちろん、優美な曲線を描いてアーチに巻きつく蔓薔薇も、ちゃんとある。一箇所に片寄らずに薔薇が咲いているところを見ると、この薔薇もきちんと管理されているようだ。どこか寂しい印象だったエリオットの屋敷とはまるで違う。
 冬の時季でさえこんなに素晴らしいのだから、春はきっと、どんな言葉でも表現できないほど美しいのだろう。こずえは少し残念に思った。
 さくさくと、花の庭のあいだを真っ直ぐに貫く、これまたきちんと整備された小道を歩いていく。広大な庭園の中の道は、やはりとても長かった。途中で、オークの樹の枝から縄がぶら下がっているのを発見した。近寄ってみると、板を吊る縄は風雨に擦り切れ使用に堪える状態ではなかったものの、簡易なぶらんこであるとわかった。
「……誰が乗っていたんだろう」
 大きさからいっても子供用だ。そこまで考えて、はたと、まだ名前も知らぬエリオットの妹がこれに乗っていたのではないかと思う。
(……)
 妹をこのぶらんこに乗せて、うしろから押してやるエリオットの姿を想像しようとして、失敗した。似合わない!
 ざくざく、ざくざく。更に進むと、今度はこずえの耳に水の音が届く。
(なんだろう)
 まさか池か。危ぶみながら近づいていくと、水音の正体がわかった。

 噴水だった。

 公園などで小型のものを見たことはあっても、本格的な噴水を見るのは初めてのこずえは、わくわくとした思いを抑えきれずに噴水に向かって歩き出そうとし――違和感に足を止めた。
(?)
 噴水の後ろで何かが光ったような気がする。目を凝らそうとしたこずえは、自分の目を疑った。
 噴水の正面に立っているのは。
(エリオット?)
 父親と一緒のはずの彼が、なぜここに。こずえの疑問を知ってかしらずか、推定エリオットは薄く微笑んで見せた。銀の髪に蒼の瞳。兄弟どころではなく双子といわれないと納得できないくらいに似ている。だがその人物は、まるでこずえが観察を終えるのを待っていたかのように、直ぐにこずえに背を向ける。
「待って!」
 叫んで、駆け出す。――だが。
「消えた?」
 さきほどエリオットらしき人物がいたはずのところには、だれもいない。念のために噴水をぐるりと一周してみたが、やはり同じだった。
「ひゃ、」
 顔に水がかかって、こずえは噴水を見上げた。
 ちょうどこずえは噴水に向き合う形で立っていた。噴水の背後には神々だろうか、弓を持った少年や、月桂樹の冠をかぶった女性の彫刻が配置されていた。
 噴水の中心から、ざあああと盛大に音を立てながら水が湧き出ては流れていく。しばらくこずえは眼を閉じてその音に聞き入った。静かだった。心が静まっていく。
「初めまして、お嬢さん。噴水は、気に入っただろうか」
 唐突に視界に入ってきたのは若い男だった。髪はエリオットを髣髴とさせる銀色だが、こちらはやや光沢がなく、燻し銀といったほうがしっくり来る。瞳も青ではなくて菫色だ。
「私はディルカートという。よろしく」
「コーディリアと申します」
 こずえの名乗りを聞いて、その男性は、大袈裟に驚いて見せた。
「ああ、では、エランディールが連れてきたというのは、君か」
「どういうことですか?」
「父に弟が報告しているのを耳にした。ご旅行の最中にいきなりこの土地に飛ばされ、供の者と逸れてしまったとか。お気の毒に」
「……ええ」
 答えが一拍遅れた。では、この人は、エリオットの兄ということになる。
「愚弟は、何らかの理由で、あなたが私たちの妹と入れ替わりにこの王国へ飛ばされたと考えているようだ。妹に執着しているから、あのこにつながるなら、どんなに小さな手がかりでも試したいのだね。私はどうだっていいのだけれど、あなたは勿論故郷に帰りたいと思っていらっしゃるだろうし、父上も娘が失踪したままでは外聞が悪いことは承知していらっしゃるし、さて、どうなるかな」
 突き放したような言い方。弟や妹を独立した人格と認めているというのとはまた違った雰囲気。――まるで兄弟とは認めていないかのような。
 こずえが怪訝な視線を向けると、ああ、とディルカートは笑った。
「私と下ふたりは、母が違うのでね。私と私の直ぐ下の母はオルガ、彼らの母はリーネイアという。もうふたりともこの世には存在しないが」
「……」
「我が愚弟に友人ができたとは久しく聞いていなかったが。ずいぶんとかわいらしいお嬢さんだね?」
「……」
 こずえは沈黙を貫き通す。ただ単に何を言えばいいのかわからなかったこともあるが、この相手に余計な情報を与えないほうがいいという第六感が働いたためのほうが大きい。
「しかし、異国の地からわざわざいらしたなら、お疲れでしょう」
 そういって、こずえの黒髪を一房手に取る。言葉の裏に潜む、本当はそうではないのだろうという含みを不快に感じたが、振り払うわけにもいかず、ただこずえは相手をきっと見据えていた。


 そうしてこずえの髪にディルカートが口をつける瞬間。


「兄上?」

 エリオットが、たたっという足音ともに姿を現した。こずえをみて、僅かに表情が緩む。もしかしなくても探してくれていたのだろうと思い、こずえは申し訳なくなった。
 ディルカートはごく自然な動作でこずえから離れて、面白そうにエリオットを見やった。
「おや、エランディールじゃないか。もう済んだのか?」
「はい。コーディリアをブルーメンブラットまで伴い、フィーネを入れ替わりに呼び戻すのを試すというところまでは許可を頂きました。ただ、やはりセルディナート兄上に付き添っていただくのが条件だと。また、道中、情勢の不穏な土地を見て回るようにとのことです。具体的にどの土地を見て回るかについても、指示をいただきました」
「なるほどな。ということは、兄弟の中で私だけがこの家に残って雑事をこなすというわけか」
 あからさますぎるほどの棘に、エリオットは押し黙る。
「まぁいい。精々観光を楽しんでおいで」
 エリオットの登場によりこずえへの興味が削がれたのか、ディルカートはそう言って去っていく。直に、木々に隠れて姿が見えなくなった。
「……ごめんなさい、勝手にいなくなって」
「ああ、随分探した」
 ぼそっと呟き、ついでのようにいう。
「ディルカート兄上は手が早いから、気をつけたほうがいい」
 だろうね、と同意すべきか迷って、結局こずえは、話の方向を変えることを選んだ。
「聞いておきたいんだけど、さっき、エリオットってこの噴水の近くにいた?」
「いや? 今日ここに来たのはこれが初めてだ」
「じゃあ、双子とか、……直ぐ上のお兄さんが凄く年が近かったりとか、しない?」
「セルディナート兄上のことか? いや、あのひとは二十六歳だ」
「そっか……。うん、気にしないで。きっと私の気のせいだと思う」
「話が読めないんだが……」
「っていうか、ここのお庭綺麗だよねー。すごく素敵で、見てて楽しかった」
 いきなり話の方向を再度転換させたこずえに、突っ込むべきか暫し迷ったらしいエリオットは、それでも話に乗ってくれた。
「まぁ、そうだろうな」
 一旦は同意して、だが、と続けた。
「あの屋敷だって、春の初めの景色は、ここに劣らない。薄紅色のラクサの花が咲くと、いっぺんに景色は華やかになる」
「へぇ」
「それに、あの屋敷を少し北に行くと、小さいものだが、森がある。中には、水が澄んでいるところにしか生えない花が群生しているんだ。サラの灯花といって、夜になると、日中のあいだ蓄えていた陽光を放って闇の中に浮かび上がって見えるんだ。その灯にラクサの花が照らし出される様は、この世のものとは思えないほどにうつくしい」
「やけに詳しいね?」
「昔、フィーネと共に探しにいったからな。時季外れだったから、蕾しか見られなかったが、あいつは本当に嬉しそうだった」
 フィーネ、というのは聞いたことのない名前だったが、前後の文脈で大体の予想はついた。
「フィーネって、妹さんの名前?」
「ああ。フィーネ・ロザリー・セントソフィア。四兄弟の末だ」
「変わった名前だね?」
「そうなのか? ……ああ、忘れるところだった。このあと、時間は空いているか」
「え? うん」
 空いているも何も、こずえの予定はまるきり空白である。きょとんとするこずえに対してさらさらと説明をしていくエリオットも、大概話の切り出し方が唐突なのだが、そのことに本人だけが気づいていなかった。
「ならよかった。察しているとは思うが、父上から外出の許可が取れた。それで、さっき話題に出たセルディナート兄上に、同行していただく必要がある」
「うん」
「父上から話は行っているはずだが、コズエは兄上と初対面だし、今のうちに会っておいたほうがいいと思う」
 エリオットの言葉に、こずえはちょっと首を傾げる。
「そんなに簡単に会えるものなの? エリオットみたいに、他の屋敷に住んでいたりとか」
「幸いなことに、今は一旦この屋敷に戻ってらっしゃる。行くぞ」








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