男がこずえの声に一瞬驚いたような顔をし、――そのまま、後ろに向かって倒れた。自然、こずえの体は男の腕から解放される。
気絶しているのだろうか。こずえは男の状態を確かめようとしたが、男の体で遮られていた方から歩いてきて、男の直ぐ前で立ち止まった気配に気づいて顔を上げる。
青い蒼い、瞳。泣きたくなるくらいに綺麗なそれ。
蒼い瞳の青年は、その瞳に絶対零度の冷ややかな色を乗せて、男を見下ろしていたが、やがて軽く首を振ると、今度はこずえに視線を移した。
「大事ないだろうか」
「ええ、おかげさまで。助けてくださってありがとうございます。……あれ」
「ん?」
ふたりが、異変に気づくまで数秒かかった。エリオットが、怪訝そうな表情でこずえを見る。
「……この言葉を、話せるのか」
「みたいです、ね。昨日――いいえ、先ほどまで他の人が何を言っているのか全くわからなかったですし、他の人も、私が何を話しているのかわからなかったようですけれど。あの、」
一瞬言いよどんで、こずえは疑問を口に出した。
「私が今話している言葉は、昨日私が話している言語と、違うものですか?」
かなり躊躇しての問いに、けれど青年はあっさりと答えた。
「ああ。昨日話していた言語は私の全く知らない言語だったが、今は流暢なルィン語だ」
「るぃんご」
「ここランセ王国での主要な言語だが」
――こずえは、頭の中がすぅっと冷えて行くのを感じた。
「とりあえず、言葉が通じていることだし、事情を話してもらっても構わないか」
部屋に戻り、こずえとエリオットは向かい合って座った。因みに昨夜と同じように、こずえは寝台の上、エリオットは長椅子の上である。ご丁寧にエリオットは、部屋の中であってもこずえとの距離を一定以上に保ってくれている。こずえの中で、エリオットの印象が、近寄りがたい雰囲気はあるが、きちんと気遣いのできる人、と、塗り替えられる。
朝起きて慣れないながらも整えなおした寝台に腰を下ろし、こずえは僅かに顔を顰める。
何から始めたら、良いのだろうか。
結局、真っ先に口にしたのは無難な内容だった。
「ええと、まだ正式には自己紹介していないので、一応。私は日下梢といいます」
「というと、コズエのほうが名前ということでいいのだろうか」
エリオットがやや言いづらそうにして発音した名前。やはり、ここは日本ではないのだろう。雑踏の中に、日本人らしき人影が一つもなかったことを思い出しながら、こずえは頷いた。
「はい」
「私は、エランディール・アルス・セントソフィア」
「エランディールさん、ですか?」
「エリオットでいい。愛称だから」
「なるほど」
こくり、と一つ頷き、こずえは、今度は一番気がかりなことを訊ねた。
「すみません、ここってどこ、ですか」
「アリアという街だが……これだけでおわかりだろうか」
「すみません、この町は、なんていう国にあるんですか」
「エアスト大陸の南方に位置するランセ王国だ」
「……大陸の数もお願いします」
「エアスト、ツヴァイト、ドリット、フィーアト、フュンフト、ゼクスト、ズィープトの合計七つだな」
「アメリカ大陸、ユーラシア大陸、アフリカ大陸、オーストラリアに南極」
「は?」
「あ、いえ、気にしないでください」
訝しげな視線から逃げるように、こずえは下を向く。
(……七大陸? そういう数え方も在るのかな)
だんだんと、焦りが色濃くなってくる。けれどこずえは、内心の焦燥をおくびにも出さず、むしろ微笑む余裕を見せて訊ねた。
「世界地図を、見せていただいてもいいですか」
「? 構わないが」
訝しげな表情を浮かべた彼は、部屋をぐるりと見回して、椅子を立った。
「これが世界地図だな」
エリオットが指し示した、壁の一面。そこを見上げて、こずえは――絶句した。
時代を感じさせる筆致で描かれた世界に散らばる、七つの大陸。地球の大陸をどう配置させ換えても、どうデフォルメしても、こんな形にはならない。
――そこは、こずえの知っている世界では、なかった。
「……う、そ」
「コズエ?」
訝しげな視線から逃れるように、こずえは手で顔を覆って浅い呼吸を繰り返す。もう笑みを浮かべられる余裕は残されていなかった。当然、エリオットから自分が今どのように見えているかにまで気を回すこともできない。
(駄目、ここで感情的になっちゃ駄目)
ともすれば恐慌に陥ってしまいそうな思考を、こずえは必死に宥める。追い詰められる余りに恐慌を起こしたところで何も得る事がないのを、彼女は経験から知っていた。
すうはあと、深呼吸を繰り返すうち、気分も落ち着いてきた。
「すみません、ちょっと」
「……大丈夫なのか」
「ええ、平気です」
こずえは笑う。内心の感情を押し隠すように。こんなことくらいどうってことないと、自分に嘘をつくために。
(泣いたって喚いたって、誰も手を差し伸べてはくれないから)
にこりと、得意の笑みを浮かべる。感情を覆い隠すための笑みを。エリオットはこずえの笑顔に違和感を覚えたようだが、何も言ってはこなかった。
「私、知らないあいだに随分遠いところまで来てしまったみたいです」
「あなたは、どこから来たんだ?」
「日本です。日本の、東京」
「ニホン? 聞いたことがないな。どこの大陸にあるんだ?」
「日本は、大陸じゃなくて島国です。ずっと南にある」
「あなたの連れは? どうしてあんな場所にひとりで」
「どうしてここにきたのかは……わかりません。私は日本にいたはずなのに、気がついたら知らないお家で寝かされていて……歩いているうちにこの町に辿り着いたんですけど。だから、連れもいないんです」
嘘ではない範囲で答えると、エリオットが思案げな顔で顎を手に乗せた。
「歩いて国境を渡ったわけでもなさそうだしな。記憶が途切れる前後の事を、思い出せるか?」
低めの声が引き金となって、脳裏に閃いた映像。
――透き通る白髪と、自分とよく似た、泣きそうな瞳。
「……ああ、あのこの髪、綺麗な白だったな」
ぽつりと漏れた呟きは、自分だけに向けたもののはずだった。だが、がたんっという大きな音が聞こえて、こずえは驚いてそちらに視線をやった。
エリオットが愕然とした表情を浮かべてこずえを凝視していた。長椅子から立ち上がっていた彼は、こずえとの距離を詰めて、低い声で問いかける。彼の気配にただならぬものを感じて、こずえはごくりと喉を鳴らした。
「白い髪の、少女?」
「え、ええ」
「特徴は」
「ちらっと見ただけですから、詳しくは言えないんですけど、背の高さはこのくらいで、髪の長さは腰に届くくらい。年は、十二か十三くらいだと思います……」
最後の年齢は自信がなかったので声が尻すぼみになる。だが、それにもかかわらず、エリオットの瞳は更に見開かれた。驚きの余りに、礼儀その他が頭から完全に吹っ飛んでしまっているようで、矢継ぎ早に質問を重ねてきた。
「あなたはいつ、その少女と出会ったんだ?」
言おうか迷って、ふと思い出す。エリオットは、こずえに絡んでいた男たちを、手も触れずに昏倒させていた。そうすることが可能な土地ならば、こずえの話も或いは信じてもらえるかもしれない。
接触せずに相手を昏倒させることも、こずえが今ここにいる経緯も、こずえにとっては同じ位荒唐無稽なものに思えたし、非日常な出来事があまりにも重なったせいで、このふたつについて深く考えることを、完全に脳が放棄してしまっていたのだ。今はむしろ、自分が目撃した少女のことを、出来るだけ詳しく相手に伝えることのほうが重大だという気がしていた。
だから、注意深く口を開いた。
「信じられないかも、しれないんですけど。ここに来る前に、黒い獣に掴まって、その獣が、急に影というか黒い液体というか、に変化して、それに纏わりつかれたかと思ったらこの国にいて。その女の子のことは、獣に纏わりつかれている最中に見たんです。あ、胸元に首飾りをしていました。これくらいの石が嵌っていて、青から紫へと変化しては戻っていました」
こずえが話を終えてから暫し、エリオットは硬直していた。話を受け入れてはいるようだが、余りに微動だにしないのでこずえが心配になってきた頃、ようやく彼は緩慢な動きで顔を上げ、こずえを見た。
「……それは、私の妹だ」
「そもそも私は、行方不明になった妹を探しに、この街までやってきたんだ」
昼下がりの室内。客が出払っているのか、宿の中はしんと静まり返っている。淡々と語られる話に、こずえはただ耳を傾けていた。
「一月ほど前のことだが、妹が貴方と同じように、黒い獣に掴まったかと思うと、獣の姿が濃い闇の姿に変わり、……あまりにもあっという間で、助けられなかった」
感情を押し隠したような声音は変わらないけれども、こずえには、一瞬、悔恨の色が端正な顔に浮かんだように思えた。
「妹は、元気そうだったろうか」
「ええ、外傷はなさそうでした」
よかった、小さな呟きが漏れて、こずえははっと顔を上げた。
冷たく凍りついたような美貌が、安堵したように緩んでいた。きつめの眼差しも柔らかに細められていて。一応はこずえにも気を遣ってくれてはいるのだろうが、こずえに向ける笑みとは、温度が余りにも違う。
(……仲のいいきょうだいなんだろうな)
温かい眼差し。このひとはこういう表情も浮かべられるんだなぁと、そんなことを思っていたこずえは、真剣な眼差しを向けられていることに気づいて、息を呑んだ。
「頼みが、ある」
「……なんでしょう」
「私は、妹を助けたいんだ。だから、あなたが妹を見かけた場所について、詳しく教えてもらえないだろうか。そこは、島国なのだろう? どこの大陸に近いのだろうか」
真剣な表情、真摯な声で語られた懇願。彼が心の底から妹の情報を欲していることがわかり、こずえは俯く。
日本のことを詳しく描写するなら、自分が異世界から来たということも含めて話さなければならない。
迷ったのは数分。こずえはすぅと大きく息を吸った。そしてひたと目の前のその人を見据えた。
「どこの大陸にも近くありません。――だって私はこの世界の住人じゃないから」
これは賭けだった。これからエリオットがしてくれているように無条件で助けてくれる人を、他に見つけられるかわからない。突拍子もない話をする奴だと呆れられて捨てられてしまうかもしれないけれど、それでも、これからこの世界で行きぬく上で、自分の事情を知ってくれている人がどうしても必要だった。
「この世界の住人ではない? どういうことだ、それは」
案の定、エリオットは怪訝な表情を浮かべた。
「……私のいた国では、世界に大陸は五つということになっています。エアスト、ツヴァイトなんて大陸を、私は知りません。それと、・・・・・・何か書くものを」
差し出された紙の上に、こずえは世界の大体の形を描く。北アメリカと南アメリカが地続きかどうかがどうしても思い出せなかったが、それ以外はそれなりに満足のいく出来栄えになった。
「これが私のいた世界です。私のいる国では、すべての子供に一定以上の教育が保障されているから、女性の私でも世界地図を描ける。……この国で、女性はこんな知識を持っていますか」
「他に、証拠は」
驚きを見せながらも懐疑の表情を強く見せる相手に、こずえはあることを思いついた。
「これを、見てもらっていいですか」
こずえは肩がけにしていたポシェットの中を探る。そして、程なく探り当てたもの――水色の携帯の電源を入れる。予想はしていたものの、圏外と表示されていることに若干の落胆を覚えつつ、こずえは慣れた手つきでキーを叩いた。エリオットのほうをちらりと見てから、ダウンロードしてあった曲を流すと、彼の顔が今度ははっきりと驚きに染まった。二曲を続けて流してから、青年に向き直る。
「この世界には、こういうものはありますか」
エリオットは押し黙り、しばし、思考を廻らせた。話をしている限り、この少女は服装こそ突飛であるが、けして暗愚ではない。打てば響くし、先ほどの男たちへの対応を見ていても、一般常識が備わっていないただの世間知らずではなさそうだ。
その一方で、彼女は、自分の名前を聞いても何の反応も示さなかった。彼女の知識量で言えば、間違いなく入っている知識であるはずにもかかわらず。さらに、話している言語はこの大陸のどこでも使われていないものだった。
たったひとりで街中にいたのも不可解だった。成人していても、妙齢の女性が外出するときは必ず、高貴な女性であれば供の者が、そうでなくても家族が同行するのが通例であるし、それをされないのはよほど身分の低い女だけだ。
そこまで考えて、彼は慎重に言葉を紡いだ。
「完全に信じることはできないが、まったくの嘘だとも思わない。……異世界から来たのでないにしろ、あなたは、全く異なる文化圏から来たのだということはわかる。入れ違いで召喚されたのかもしれない」
少女の纏う空気が明らかに緩んだのにほっとして、エリオットはつい口をあらぬ方向に滑らせた。しかも盛大に。
「しかし、ひとりで町を歩くのはよくない。あなたは年齢の割りに聡いようだが、それでは防ぎきれない危険もある」
妹と目の前の少女が重なったこともあり、つい言い聞かせるような口調になったエリオットに、こずえは複雑そうな表情を浮かべた。エリオットも、何かまずいことを言ったらしいということには気づいて、話をやめる。
「……あの、念のために言っておきたいんですが、私は十六歳です」
ぴしり、と、目の前の青年が固まる気配に、こずえは半眼になった。嫌な予感ほどあたるもの、とはよく言ったものである。
「ほんとうに?」
「……私の言動はそんなに幼いですか」
何とか言い繕おうとして、墓穴を掘るだけだと気づいた青年は、しばらく視線をうろうろと彷徨わせた後、はぁと息をついた。
「失礼した。では、コズエは、……俺と一歳違いなのか」
一人称が「私」から「俺」に変わったが、こちらのほうがぐっと親しみやすい気がする。口調が幾分丁寧だったのも、もしかすると年端の行かない少女を怯えさせまいとの気遣いだったのかもしれない。
そんなことを考えてから、青年――いや、少年の言葉を反芻したこずえは、こちらも音を立てて固まった。
「あの、」
「なんだ?」
「エリオットって十七歳なの?」
十五歳はいくらなんでもありえない。だが十七歳でもまだ信じられない。そう思っての問いかけに、少年はあっさりと頷いた。
「ああ」
「……ごめん二十代前半だと思ってた」
申し訳なさがたっぷりと含まれた謝罪に、少年は目を丸くした。
一呼吸置いて、ふたり分の軽やかな笑い声が室内に響いた。
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