第1章 "prelude"



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 春になりかけの温かな陽光が辺りを包み、時折吹く風が少女の栗色の髪をやさしく揺らす。一面の花畑の中、その少女は片手に色鮮やかな花が入った籠を握り、一人ゆっくりと歩いていた。偶に一際目を引く花の蕾の前で立ち止まっては、花の前で少しの間手を合わせてから籠の中から鋏を取り出し、茎の根元に刃を当てて茎を切り、その花を籠に入れる。彼女を見守るのは専ら上空に輝く太陽だけで、少女はのびのびとした気持ちで花畑を闊歩していた。
 だから、突然目に飛び込んできた光景に、一瞬少女の足が竦み、その場から動けなくなってしまったとしても、彼女には何の非も無かったと言えるだろう。
 少女はふと違和感を覚えて立ち止まった。冬にもかかわらず健気に花を咲かせている白い花の中、その中に異質なものを見た気がしたのだ。そっと近づいてみると、花の間から服の生地らしいものが見えたので、思い切って近づく。
「こんなところに、なぜ……」
 呟きつつ、上から覗く、と――
 そこにいたのはまだ年端のいかない黒髪の少女であった。白い花の上にその艶やかな黒髪を散らして横たわっているさまに、少女は何年か前の出来事を思い出して身を強張らせた。
―― 一面の白、その中に散った黒。
「リーネイアさま……?」
 声に出しかけて、ふっと少女は我に返った。慌てて少女の手首をとって脈を測ると、若干遅めであるものの、心臓はきちんとその役目を果たしているらしいことが伝わってきた。見れば、胸や腹がゆっくりと上下している。その顔を凝視して、またもや同じ名前を発しそうになり、すぐに首を振った。「彼女」はもうこの世界のどこにもいないのだ。それでもついその名を呼んでしまったのは、いまだにその記憶が生々しい為か――。
「それにしても、良く似ていらっしゃる」
 目の前に横たわっている少女は、服装こそ奇妙な――少なくとも彼女は目にしたことがないような――ものであったが、目を瞑っているその表情といい、髪の色といい、彼女のよく知っている女性とそっくりだった。――いっそ、似過ぎているほどに。
「エランディール様は何と仰るでしょう……」
「彼女」に余りにも似ている少女を目にして、平静を保っていられるだろうか。
(けれどそれは、後で考えれば良いことね)
 少女は空を振り仰ぐ。中天にあったはずの日は、いつの間にか西方の空へと移動していた。日が長くなってきたとはいえ、まだまだ夜は寒い。ここに放っておいたなら、間違いなく彼女は凍死してしまうだろう。
(取り敢えず、ご報告はエランディール様がお戻りになってからでいいかしら……そろそろお戻りになられるころだし……)
 心の内で考えつつ、彼女は勤めている屋敷へと戻っていく。澄み切っていた青い空を、いつの間にか灰色の雲が覆い始めていた。





「ここ、どこ」
 茫然とした面持ちで呟いた言葉に、答えは返ってこない。こずえはしばらくぼうっとすると、また目の前の景色を眺め始めた。
 そこは、一面の野原だった。どこか殺風景な印象があるが、それは生えている草の殆どが、花をつけていないからだろう。
 問題は、なぜ、目が覚めたら全く見覚えのない場所にいたかということである。
「さむい」
 ぶるりと身を震わせたこずえは、一旦窓から離れると、部屋の中を見回して、はっと目を見開いた。
 暖炉がある。今は殆ど消えているけれど、ぶすぶすと火がくすぶっていると言うことは、少し前まで実際に使用されていたのだろう。
「……なんで?」
 外の景色といい、この暖炉といい。
(まるで、今が冬みたいじゃないか)
 しかも、暖炉が実際に使われている家が、このご時勢、いったいどこにあるというのだ。少なくともこずえは、生まれて初めて実際に使われている暖炉を見た。
 いつのまにか、こずえは、窓から外に出ていた。押し寄せた寒気にぶるりと震え、そのままふらふらと、広い庭を彷徨う。
 暫く歩くと、目の前に街のようなものが出現した。後ろを振り返ると、遥か遠くに出てきた屋敷が見える。そこまで歩いてはいないつもりだったのだが、意外と遠くまで来ていたらしい。
(まぁいいや、街だったら、誰かに道を聞けるだろうし)
 そう思いつつ、歩き出そうとした瞬間。

こずえの肩に、手がかけられた。





 同刻。ランセ王国の北西に位置する街アリアは、今日も大勢の人で賑わっていた。大通りに立ち並ぶ露店では、この時期には珍しい色鮮やかな果物や花を掲げた売り子が、しきりに客を呼び込んでいる。
 髪の色も眼の色も様々な人々が行きかうこの街で、一際目立つ青年がいた。はっとするような白銀の髪は長く、背中の中ほどで纏められていたが、眼差しが鋭いので女性と間違えることはない。白銀の髪が、端正な顔、澄んだ蒼の瞳とあいまって、どこか人間離れした印象を与えていた。まだ若いが、実にまとう空気は硬質で、他人を寄せ付けぬ雰囲気を纏っている。
「……!」
 ふと、道の脇から声がしたので、青年はそちらに顔を向ける。
(……人買いか)
 まだ幼いといってもいいくらいの少女の周りを、いかにも柄の悪い男たちが取り囲んでいる。アリアの属するノルテ地方では人買いは禁止されているのだが、それでも蛮行に及ぶ輩は後を絶たず、ここ数年のあいだでむしろ被害件数が急増しているという噂を、青年もよく知っていた。
 男たちに絡まれている少女は、一言でいうと、何から何まで衆目を集めるたぐいの人間だった。まず、闇を思わせる漆黒の髪に同色の瞳。黒い髪という時点で希少であるのに、黒い瞳の人間など聞いたことがない。
 更に、異国から来たのか、珍しい格好をしていた。今は冬だというのに、腕や足を盛大に露出した格好である。一瞬その方面の生業に就いているのかと思ったが、それにしては娼婦特有の厚い化粧をしているわけでもないし、香の匂いもしない。なにより、吸い込まれそうなほどに深い闇色の瞳には、媚びる色が全くなかった。
 極め付けに、この少女は、この大陸で使われている五言語すべてを操ることのできる彼をもってしても、理解できない言語を口にしている。
 結論から言うと、やたらと目立つ少女であった。とりわけ美しいわけではないが、芯の強さを感じさせる顔立ちで、それも人目を引いた。ここで男たちの手を免れても、独りでいれば遅かれ早かれ攫われて売り払われる羽目になるだろう。
 青年の目の前で、男が少女に向かって何かを言う。少女は、言葉が通じないながらも、自分の身に迫る危機を敏感に察知しているらしく、毅然とした表情を浮かべてその場から動こうとはしなかった。人買いが裏道に引っ張ろうとしても、腕を振り払う。
(さて、どうするか)
 青年は腕を組んで、束の間思案する。面倒ごとを避けるなら、このまま通り過ぎても良かった。まして今の彼には「彼女」を探すという目的がある。
 けれど、人買いは、この国では厳しく禁止されているし、「彼女」も人買いにあっている可能性を考えると、見過ごせなかった。そして、なによりも、目の前の少女の雰囲気がどこか「彼女」に似ていたのだ。
「おい」
「なんだよ、邪魔するなって。俺たちが見つけた獲物なんだ。これは高く売れるぜ」
 咎める声に返ってきた反応はほぼ予想通りで、彼は胸のうちで溜め息をついた。
「ここの領主が、人攫いを厳しく取り締まっているのを知らないのか」
「はぁ? なんだよ、正義の味方気取りか」
「違うな」
 剣呑な雰囲気を露にした男たちに対し、青年はあくまで冷静な態度を崩さない。だが、沈黙を保ったままに見える彼の口元がわずかに動いて、殆ど聞こえないくらいの文句を紡ぎだしていることには、少女以外の誰も気づかなかった。
「目障りだから、こうするだけだ」
 すい、と次に彼が顔を上げた瞬間。
「――!!」
 目に見えない打撃を喰らった男たちは、ひとり残らず地面に倒れていた。





「大事無いか?」
 男たちを倒してから青年が聞くと、少女は茫然とした表情を青年に向けた。何に驚いているのか、彼にはわからない。しかし、少女の顔に驚きはあっても恐れの色はない。幼いのに気丈なことである。
 少女が、ややあって、警戒の滲む顔つきではあったが、ぺこりと頭を下げてきた。何かを言ったようだが、やはり聞き取れない。
「あー……とにかく、ここを移動してもいいか」
 通じるかどうかはわからないながらも彼女の瞳をじっと見据えて言うと、何を言いたいのかを感じ取ったらしい少女が、こくりと頷く。
 歩き出し、少女が後ろからついて来るのを確認して、青年は手近な宿に向かった。



 宿に到着して部屋を取ると、青年はどさりと荷物を書き物机の上に投げ出した。上着を脱ぐついでに懐に手を入れて、取り出したものを少女の手の上においた。
「空腹なら」
 目をぱちくりとさせた少女の視線の先にあるのは、宿に向かうあいだに露店で手に入れた、小麦粉を練ったものを油で上げて、野菜と肉を挟んだ軽食である。
 宿で食事をとることも考えたが、少女の容姿は好奇の視線をひきつけてしまう。いらぬ面倒を避けるためには、部屋からでる回数をなるべく減らすべきだと、彼はそう考えた。
 暫しの沈黙ののち(少女はずっと目前の食べ物を観察していた)、少女はぱくりとそれを口に含んだ。
「――」
 発せられた言葉の意味は、やはりわからない。それでも、向けられた表情が和らいだそれであったことに安堵して、青年も食べ物を口に運んだ。



 ふたりが食べているあいだに、外の景色はとっぷりと暮れていた。外が暗くなるのに呼応するように、部屋を照らす洋燈の火が明るくなっていく。
 その明かりをぼんやりと見ながら、青年は、そろそろ寝る準備を整えなくては、と考え始めていた。
 だが、さきほどから少女の様子がおかしい。食べているあいだは解れていた緊張がまた高まってきたようで、警戒心たっぷりの顔つきで自分のほうを伺っている。
(ああ、そうか)
 やがて、少女が何を心配しているのかに気づいた青年は、ソファに腰を下ろして就寝する準備を整えた。
「俺は一旦出てくるから、そのあいだに着替えをしておいてくれ」
 軽く襟元をつかむ動作をすると、察したらしい少女が、ほっと表情を緩める。彼は部屋を出ると、扉の直ぐ前の手すりに凭れた。彼らの割り当てられた部屋は宿の二階にあり、手すりから下の様子が窺える。酔っているのか顔を赤らめた男たちが騒いでいるのを見て、やはり部屋の前から離れるのは危険だと判断した。いつ、さきほどの人買いと同じようなことを考える者が出ないとも限らない。
 と、そのとき、扉から少女がひょいと顔を出した。着替えが終わったらしいので、彼も続いて部屋に戻る。部屋に足を踏み入れながら、何の気なしに目の前の少女を観察した。
 最初に見たときも思ったが、やはり細い。手首などは彼がちょっと力を加えれば簡単に折れてしまいそうなほどだ。まだ低い身の丈とあいまってずいぶん幼いような印象を受けるが、人買いへの対応や、いままでの振る舞いを鑑みると、内面はかなり大人びているようだった。現に、着替える前と比べて少し弱まったものの、警戒の色は少女の瞳から消えない。無理はないしこの上なく賢明な態度だと思うが、心配せずとも年端の行かない少女に無体を強いるような趣味は持ち合わせていない。
 それを示すために、彼は布張りの長椅子に横になり、壁のほうを向いた。そのまま灯を消して眠りに入ろうとしたが、ふと思いついて、少女のほうを振り返った。





 深い深い漆黒の瞳。夜の色だと、思った。年齢にそぐわぬほどの思慮を湛えた夜空の色。





「俺はエリオット」
 少女が首を傾げる。エリオット、と、ゆっくりと繰り返すと、うっすらと微笑んだ少女が、自分を指差して口を開いた。
「……コズエ」
 耳慣れぬ響き。やはり遠き地から来たのだろう。
 明日あたり、この少女の連れが彼女を探していないか聞いて回ろう、と思いつつ、彼は毛布をかぶった。することがあるというのは、良いことだ。少なくとも、不安は紛らわすことが出来る。
 背中で少女がほっと息をつき、横になる気配がしたのを確認して、青年はゆっくりとまぶたを閉じる。



 こずえは眠っていなかった。いや、眠れなかったのだ。眠りに落ちかかるとすぐに、薄汚い笑みが脳裏に甦って、慌てて意識を浮上させる、その繰り返しだった。
「……ここはどこなんだろう」
 自分は日本にいたはずなのに、黒い獣に掴まって、その獣ごと消失したと思ったら、おかしな部屋にいて。彷徨っているうちにこの街に辿り着いた。そして、出会ったのは。
(エリオット、さん)
 誰にも汚されていない新雪を思わせる白銀の髪に、海の色をそのまま写し取ったかのような瞳の男のひと。彼がどういった人なのか、こずえには未だ詳しいところはわからない。
(でも、)
 彼が自分に害を為すつもりなら、とっくに何か起きている。身よりのない若い娘がひとりでいたらどうなるかくらい、こずえにもわかる。
 優しい態度で騙そうとしているということも、おそらく、ない。言葉のわからない娘になにかするのに、そこまで込み入った手間は必要がない。
 それにしても、見知らぬ土地で若い男性についていくなど、自分はどうしてしまったのだろう。
 そこまで考えて、こずえはふっと、苦笑した。
(考えるまでもない、か)
 見知らぬ土地。通じない言葉。悪意を向けてくる男たち。そんななかで、悪意を振り払ってくれた、彼の瞳は。





 とても、澄んでいるように思えたのだ。





 翌日目を覚ますと、エリオットは部屋の中にいなかった。
(……身支度を整えているのかな)
 初めはそう思っていたこずえだが、いつまで経っても彼が帰ってこないので心配になり、そうっと部屋の扉を開けた。
 きょろきょろとあたりを見回すが、白銀の青年の姿は見当たらない。
(宿のもっと奥のほうにいるのかな。でも、あんまりうろつくのも・・・・・・昨日のこともあるし)
 ざっとそこまで考えたこずえは、そのまま部屋の中に戻ろうとする。
だが、彼女は、一瞬の思考が周りへの注意力を削いでいたのだと気づいて臍を噛んだ。
「おい、おまえ、」
 その声に、こずえの体に緊張が走った。振り返らずとも、言葉が通じずとも、わかる。この声の持ち主は。
「仲間がな、あんたがこの宿にいるのを見かけたって言うんで来たのさ。おい、昨日はよくも手間を取らせてくれたな」
 男がそう言っているのをこずえは知らない。わからない。ただ、自分の身に迫っている危機だけを敏感に感じ取って、こずえは咄嗟に部屋の中に戻ろうとした。
「逃げんなよ」
 強い毛で覆われた腕が目の前に突き出されて、こずえはびくりと動きを止めた。
(もう、逃げ場、が)
 こずえの腕力では逃げ道を塞がれてはもうどうしようもない。それでもせめて男を強く睨みつけながら、こずえは頭の隅で祈った。
(言葉が。せめて言葉が通じたなら)
 男が垢で汚れた手をこずえに向かって伸ばしてくるのを、後ずさりして避けようとしつつ、こずえはあらん限りの声で叫んだ。





「助けて、エリオットさん!」








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