第4章 過去抱く花



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 カシェの薬を服用したとき、稀に喉に突き刺すような痛みが走ることがある。滅多にない事例なのでその意味を知るものは殆どいないが、エリオットはその症状を呈すもののひとりだ。
 そのような痛みが走るのは、世間で知られている中では封魔の効果の一番高いカシェの薬でさえ抑えきれない魔力を、服用者が持っていることを示す。そしてそれは、歓迎される事実ではない。
 そもそもカシェの薬は、魔力が多すぎるせいで生命存続が危うくなったものが生命を維持する用途で用いられる薬だ。また、魔力を封じきってしまった場合精神にも影響が及ぶので、よほどの状況に陥らない限り使われない。
 言い換えれば、カシェ一錠が封印できる魔力量だけでも、ひとのからだには多すぎるくらいなのだ。ましてカシェが封印できないくらいの魔力は、術者にとって毒にしかならない。エリオットも、カシェを一日に三回、三錠ずつ呑むことでようやく人並みの生活を送ることが叶っているのだ。
 その彼が見ても、こずえの魔力はちょっとやそっとで抑え切れるものではない。放っておけば、こずえの魔力は彼女の寿命を確実に縮めていくだろう。
(一先ず様子を見るか……? けれど、髪が伸びないということは、もう異変が肉体に現れているということになる)
「ひとつ、聞いて欲しいことがある」
 一旦説明を中断して改まった面持ちで少女に向き直る。こずえも雰囲気を察したらしく、真剣な表情になった。
「なにを?」
「俺が服用しているのと同じカシェの薬を、一日三回、食後に摂って欲しい」
 魔力が身を蝕んでいるなら、出来るだけ早く対策を打たなければ。彼女のからだがぼろぼろになってからでは遅すぎる。
「カシェの薬は、魔力を抑制する効果がある。髪が伸びないのも、たぶん、魔力をうまく抑えられていないからだ。だったら、薬の力である程度抑えたほうが、扱いやすくなるだろう」
「え、でも……カシェの薬は魔力を持たない人間には無害だって言ってたよね? それって、裏を返せば、魔力を持つ人には多少の害はあるってことだよね?」
 予想通りの反応に、内心で臍を噛んだ。常日ごろ聡明なのは彼女の長所だと思っているが、今ばかりはそれが恨めしい。
「副作用が強いのは、カシェの薬で魔力を抑えきってしまった場合だ。コズエにはその心配はない。精々頭痛くらいだろう」
「いや、頭痛って、辛いときには結構辛いんだけどな。でもまぁ、わかった。あとで薬をもらえるかな」
「ああ」
 平静を装いつつ、少年は、自分が動揺しているのも感じていた。
(さっきの、水と風の魔法の同時使用)
 無意識でこれなら、きちんと訓練すればどれほどのものになるか、想像するだけで背筋が寒くなる。凄まじい魔力は、きっとこずえによくは働きかけない。
(胸騒ぎがする)
 魔力がちょっと高いだけなら良い。薬で抑えれば済む話だから。しかし。
(全く訓練していない状態であれだけのことができる魔力が覚醒しきってしまったら、……コズエの肉体が耐え切れるか、どうか。そもそも、)
 そこまで考えて、彼は静かに首を振る。
(まさかな、考えすぎだ)
「薬を飲んでおけば、当座は大丈夫だ」
 聡い彼女は、やがて感づいてしまうかもしれない。けれど、言えるわけがなかった。身に秘めた魔力がすべて解放されれば、肉体が崩壊してしまうかもしれない、なんてことは。
「あ、そうだ、頭痛で思い出したんだけど」
「なんだ?」
 彼女から別の話題を提示してきたことに少年はかなり救われた気分になり、一も二もなく助け舟に飛び乗った。
 だが、示された話題は少々意外なものだった。
「この世界に落ちてきたときのこと、少し思い出した。獣ごと地面に溶けていった後に、衝撃が、二回あったんだ」
「二回? 一回じゃないのか?」
「うん、二回。一回は多分、この世界の大地に落ちたからだと思うんだけど。どさっていう感触がしたし。でも、」
「でも?」
 先を促すと、こずえは一瞬言いよどんで、諦めたかのように言葉を続けた。
「二回目は、……まるで、内側から突き上げるみたいな感覚だった。内臓の内側から何かがせり上がってくるみたいな。思い出したからには、言っておいたほうがいいと思って」
 一応衣食住からすべてお世話になっているわけだしね。そう言って彼女は笑った。その笑顔を見ながら、少年は暫し考え込んだ。
「異世界を渡ったもの自体、公式な記録には殆ど残っていないからな。まして異世界に移動するときの仔細な様子については、知識がないからなんともいえないな。だが、言ってくれてありがとう」
「うん。フィーネに、早く会えるといいね」
 なんの含みもない笑顔に、ふと、彼女は帰るべき存在なのだということを思い知らされる。フィーネとエリオットが早く会えるといい。それはきっと、彼女の「早くニホンに帰りたい」気持ちと裏表を為す言葉だ。
「念のために聞くが。その、ニホンにいるあいだは、お前には魔力はなかったんだな?」
「うん。ていうか、魔法自体が存在しない世界だから」
「そうか」
 そうなるとやはり、そううかうかしていられない。こずえの魔力が覚醒しきる前に日本に戻してやらなければ。
 その考えに一抹の寂しさを覚え、――けれど少年はゆっくりと首を振った。
(コズエは帰るべき人間だ。俺が口出しできることじゃない)
 そう自分に言い聞かせていたところだったので、ふと漆黒の瞳が自分に向けられていることに気づいてぎょっとした。
「な、んだ」
「うん。フィーネって、なにか由来とか所以とかある名前なの?」
「いや、特にないが」
「そうなんだ。わたし、フィーネの名前には特別な意味があるのかなって、ずっと思ってた」
「特別な意味?」
 エリオットは小首を傾げる。
「うん。フィーネはね、私の世界では『終焉』って意味なんだ」
「おわり?」
「そう。イタリア語で言うならfineだね」
 いたりあというものがなんであるのか今一つわからなかったが、彼女の住まう世界の地域名であることを何となく理解した彼は、沸きあがった疑問を口にした。
「なら、コズエは、どんな意味の名前なんだ?」
「あ、そっか。固有名詞の意味までは翻訳されないんだね。うん、樹の梢って意味だよ。梢が太陽に向かって真っ直ぐに伸びるように、真っ直ぐに健康に育って欲しいってことらしいけど」
 そこまでいって、こずえはエリオットに気づかれないように、ひっそりと自嘲の笑みを浮かべた。――なにがまっすぐだ。
(たいせつなひとも守れなかったくせに)
 元いた世界とは全く異なる世界に来ても、少女の過去は彼女を拘束し続ける。自己嫌悪や人間不信に雁字搦めにされて、もう息もできない。
 そんな内心の苦悩をおくびにも出さずに、こずえはお得意の笑顔を浮かべて、エリオットに向かって頭を下げた。
「とにかく、魔法の使い方の指導、これからよろしくお願いします。ごめん、また迷惑かけることになっちゃうね」
 頭を下げると、エリオットの眉根が寄った。どうやら微妙なご心境らしいが、あいにくこずえは読心術に堪能ではないので、彼の機嫌が降下した理由などちっともわからない。
「後、確認。ブルーメンブラットは、次に行くフィオーレから船に乗っていくんだよね? 用意したほうがいいものって」
「いや、特にない」
 表情を戻したエリオットは、こずえにもう寝るのかと訊ねてきた。
「あ、うん。もうすることもないし、早めに寝ようと思って。フェルティも呼びに行かないと。きっと遠慮してるだろうから」
「なら、おれもそろそろ出るか」
「うん、ありがとう。一応包帯巻いとくから、怪我したってことで宜しくね」
 そういって包帯をひらひらとさせる彼女は、なんというか、本当に何から何まで抜かりがない。その頭の回転に若干呆れつつ、エリオットは彼女の部屋を後にしたのだった。
 そのときはもう日が暮れきっていて、窓の外には暗闇が広がるばかりだったから、部屋を出て行ったエリオットも、残されたこずえも、気づかなかった。



 窓の外から、琥珀色の視線が、こずえを射抜くようにして見詰めていたのだ。





「とにかく、道が平坦なところまで歩いていくしかないな」
「ちょっと、エリオット。わたくしへの気遣いは?」
「どこからどうみても健康そのものだろ」
 翌朝。たっぷり睡眠をとったフェルティが無事に健康な顔色を取り戻したので、一行はヴァイスを出発しようとしていた。
「エリオットったら無神経の極みだわ! そんなんじゃ女性に嫌われるわよ?」
「少なくともお前に好かれたいとは思っていないから平気だ」
「本当に減らず口ばかりね。……あら、コーディ?」
「あ、ごめん、ちょっと靴擦れ起こした。先行ってて」
 残りの面々より少し遅れてしまったこずえは、ヒルダに嫌味を言われるか足を踏み抜かれたりする前にと思い、さっと地面にしゃがみこんだ。手早く靴を脱ぎ、足の状態を確かめようとする、が。
 突然からだを襲った浮遊感に、こずえは身を固くすることしかできなかった。誰かの腕によって軽々と抱き上げられた感覚に、首を回して頭上を仰ぎ見てみれば、琥珀色の垂れ気味の瞳と目が合った。
 こずえの不審げな視線には全く気づかずに、少年は眦を更に下げた。
「やっとみつけた」
「……え?」
 見つけたもなにも、こずえはこの少年とは初対面である。そもそも哀しいかな、こずえの知り合いは日本人ばかりでこんな人間と出会った覚えはないし、ランセ王国についてからも見た覚えがない。
「あの、」
「もう、本当に心配したんだよ? 姉さん」
 こずえに弟はいない。だが、その事実を指摘することはできなかった。こずえはこの少年に、紛れもない恐怖の念を抱いていたからだ。なるほどこずえに向けてくる視線も抱き上げている腕も非常に優しい。
 けれどその視線は、こずえ自身ではなく、――誰か別の人に向けられていた。
「……すこし現状が把握できていないんだけどね。そのこは君のお姉さんじゃないと思うよ?」
 あくまでも穏やかな声音に載せて差し伸べられた救いの手に、こずえは思わず縋りつきそうになったが、時間をおかずに冷え切った声音が上から降ってきた。
「なんだ、お前は」
 感情というものをすべからく取り払ったような声が、先ほどまで慈愛に満ちた表情で自分を見つめていた少年から放たれたのだと理解するまで、たっぷり十秒ほどかかった。
 そのあいだにも、少年は凍てついた声音で話し続けた。
「散々姉さんを弄び、挙句に飽いて捨て置いた輩が今更何を言う? 僕は姉さんを取り返しに来ただけだ。人間に興味は無いが、邪魔をするなら容赦はしない」
 その台詞に、その場にいた殆どの人間が呆気にとられた。こずえ自身も例外ではない。こずえはセルディに「弄ばれた」覚えもなければ、「捨て置かれた」覚えもない。だが、なんとなくそれを指摘できるような雰囲気ではなかったので、誰も彼もが黙ったままだった。ただ一人を除いて。
 そのひとりであるところのエリオットは、眼差しに剣呑な色を載せると、琥珀色の少年に向き直る。彼が一歩歩みでようとした瞬間。
「……面倒な」
 低く押し殺した声がしたと思うと、エリオットの姿勢が大きく傾いだ。
「え」
 見れば、こずえはなんともないにも関わらず、フェルティ、セルディ、それにヒルダも、まるで地面が大きく揺れているので立っていられないとでもいうかのように、その場にしゃがみこんでいる。――いや、実際に地面が揺れていた。その場にあるものは、少年とこずえ以外の全てが、突然の大地の鳴動の影響を受けていた。
 しかも、かなりひどい揺れらしいことは、どんどん青ざめていくフェルティの顔色でわかる。
「やめて!」
 思わず叫ぶと、景色の揺れが止んだ。少年ははっとしたかのような表情を浮かべてこずえに視線を戻した。
「ごめんね姉さん。……そうだよね、姉さんはいつだって、どんなものにだってやさしかったよね」
 心の底から気遣うような視線で、さあいこう? と、こずえのからだをしっかりと抱えなおす。
 こずえは、少年から距離を取るべきか迷う。
(ここでわたしが素直についていかなかったら、彼はきっとここにいる誰かを傷つける)
(それに、)
(わたしがいないほうが、この旅は順調に進むかもしれない)
 フィーネについての渡せる全ての情報を渡した今、何も提供出来ないこずえの存在は、むしろ一行にとって邪魔なだけではないのか。セルディもフェルティもこずえを責めようとはしないが、実はヒルダの言うことが一番真実に近いのではないか。
 一瞬の躊躇は、こずえが少年の腕から抜け出す機会を奪い、そして。
「こずえ!」
 一行の前から、少年はこずえを抱きかかえたまま、忽然と姿を消したのだった。








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