第4章 過去抱く花



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 ルトロヴァイユを出発してから五日後、一行は水の都市フィオーレへの行程を半分以上終えて、小さな村ヴァイスの宿に泊まることになった。
「あー、やっと着いたぁ」
 日が暮れて間もなくという頃合い。宿屋に入ったところで一番素直な感想を上げたのはこずえである。途中まで馬車で来たのだが、何回乗っても身体が慣れてくれないのだ。夕食は摂ってあるので、腹の具合は問題ないのだが。
「このくらいで疲れると?」
 ヒルダもいつもの調子で嫌味を投げるが、その顔にも疲労が見える。けれどもこちらは馬車で疲れたのではなく、また別の理由からなのだが。
 彼女は大きく肩を落とすと、その不満を吐き出した。
「馬車が使えないなんて、考えられませんわ。なんて田舎なのかしら」
 ヒルダの隣で荷物を降ろしているエリオットは、余り疲れが顔に出ていない。おそらく、整備されていない道も歩き慣れているのだろう。なりの距離を徒歩で移動してきたはずだが、こずえ、エリオット、セルディは余り堪えているようには見えなかった。
 二日前、順調に進んでいた馬車の旅は呆気なく終わりを告げた。途中の道が余りにも起伏に富んでいる上に馬車が通れないほど狭かったので、御者が音を上げたのである。そこからはずっと歩き通しだったのだが、こずえの予想に反して、一行の中でおそらく一番体力のないフェルティは最後まで弱音ひとつ吐かずに懸命に耐え切ったのである。
「フェルティアーナ様、お加減は?」
「へいき、です……」
 青白い顔をしているフェルティに、セルディが心配そうに声をかける。疲労が溜まったのか、フェルティは朝から傍目にも判るほど体調が悪そうで、けれども気丈にここまで歩き通してきたのである。
「エリオット、早くフェルティを部屋に連れて行かないと」
「ああ、そうだな」
 ひとつ頷いたエリオットが泊まる手続きを手早く済ませている傍らで、こずえは食卓の下に置いてあるフェルティの荷物を持ち上げた。こう見えて力は意外にあるのだ。
「んじゃフェルティ、荷物持ってくね……」
 そうして踵を返そうとした瞬間、ヒルダの口元が、にやりと嫌な感じに吊りあがるのを、見た気がした。
 こずえの直ぐ背後、食卓の上で、パンから離れ刃を下にして落下するナイフ。
 ざくりと、ワンピースごと、こずえの腿が切り裂かれる。
「――った」
 こずえは軽く顔を顰めた。じわりと、傷口から鮮やかな赤が滲む。幸いにして荷物は取り落とさずに済んだが、屈んで一旦荷を床に降ろした。
「コーディ、大丈夫!?」
 フェルティの言葉に傷口をまじまじと凝視したが、この怪我が「大丈夫」の範疇なのか、こずえには判別がつかない。
 すかさず、すっとこずえの前に膝を突いたセルディが、傷口を観察しつつこずえに二、三の質問を投げかける。最後にこずえの傍に落ちていたナイフを拾い上げ、その刃の部分を観察してから、安心させるような力加減でこずえの肩をぽんぽんと叩いた。
「深いけれど、重症ではないね。念のため消毒して手当てをする必要があるけれど、心配は要らない。きちんと砥がれている肉刀だったから、傷も綺麗にくっつくだろう」
「じゃあ、部屋に行って、とにかく消毒をしてきます。消毒剤は部屋にありますか」
「ああ、鏡台の上にありますよ」
「わかりました、ありがとうございます」
 軽く屈伸をしてみると、痛いことには痛いが動けないほどではない。血で床を汚すことのないように傷口に布を固定して自室に向かおうとしたこずえに、エリオットが声をかける。
「後で二人分の荷物と包帯を持っていく。持ってないだろ」
「ありがと、助かるよ」
 部屋を出る瞬間にヒルダと目が合う。何か言うべきかと考えたが、やはり何も言わないままこずえは口を閉じた。彼女が故意にこずえに怪我を負わせたという証拠はどこにもない。こずえが怪我をするだろうと認識しながら放置していた可能性は大いにあるが。

 ただ、なぜか彼女が苦々しい表情を浮かべていたことが、やけに印象に残った。
 






 自室に辿り着き鍵をかけると、こずえはまず消毒液が置いてある鏡台の前へ向かった。鏡台には花と蝶を象ったかわいらしい装飾が施してある。その正面に配置してある小さな椅子に腰を下ろすと、こずえは念のため腿から流れる血で服を汚すことのないように、ごく薄い下着姿になった。
 さてまず消毒だと思いつつ、傷口から慎重に布を外したこずえは、――予想外の光景にこれ以上ないくらい大きく目を見開く。


 大きく切り裂かれたはずの少女の肌は。まるで何も無かったかのようになめらかなままだった。


「え」
 右手に握る布を見れば、そこには紅い染みが広がっている。腿にもまだ、鈍い痛みが残っている。
 それなのに、切られた直後は確かにあった傷が、どこにも見当たらない。
(どういう、こと?)
 余りの事態に脳が情報の処理を放棄してしまったかのようだった。考えようとしても、思考の破片があちこちに散らばるだけ。こずえは放心して鏡に映る傷ひとつ無い自分の姿を眺めていた。
 そして少女は異変に気づく。
「……あれ?」
 髪が、伸びていない。この大陸に来て三週間近く、多少は外見が変わってもおかしくないし、前髪はそろそろ切らなければならないはずだ。なのに、姿見に映る自分の姿は、最後に日本で見たときと寸分変わらない。殆ど一年中セミショートのこずえに対して、姉のかえでが見事なまでのロングなのに憧れて、春になってから前髪以外を切った覚えがないのに。
「……」
 はた、と思い当たることがあって、こずえは全身を映す鏡の前に移動した。
「体型も、変わってないのに。そういえば……生理も、来てない」
 鏡の向こうから自分を見つめ返してくる少女の肢体は、肉感に乏しい。薄い下着姿になってしまえば、殆ど肉の付いていないからだの線が露になる。
 それでも、生理がこないほどに細いわけではない。食べる量が極端に少ないわけではないし、肉がつきにくいのは体質だろう。
 日本にいた頃でも、多少生理が遅れたことはあった。だが、生理がこないまま二月近くが過ぎたのは、初めてのことだった。

 背筋を襲った嫌な予感に、こずえは薄い体を抱きしめた。

 ありえない速度で治癒した傷。顎の少し下の位置から伸びない髪。生理がこなくなったからだ。



――まるで、こずえのからだだけ、時を止めてしまったかのようだった。







「……コズエ?」
 こんこん、と扉を叩くが、そこにいるはずの少女の返事はない。包帯を抱えたまま少年は暫し沈黙し、今度は「入るぞ」と大きな声を出した。
「……!」
 声こそ出なかったが、扉の向こうでこずえがびくりと身を震わせた気配がした。「ちょ、ちょっと待って。今支度するから!」と言われたところから考えるに、どうやら意識がここにあらずの状態だったようだ。
「ごめん、待たせて」
 きぃっという音と共に、エリオットより大分低い位置にある頭を覗かせた少女は、手を合わせてエリオットを拝んだ。着替えたらしいワンピースは、足首の少し上までをすっぽりと覆っているので、怪我の程度はわからない。
「いや、いい」
 少女の足の動きを見ている限りそんなに痛みはなさそうだと判断して、エリオットはこずえに包帯を手渡した。
「……うん、ありがとう」
 心なしか沈んだ返答が返ってきた気がして、少年は内心軽く首を傾げた。実際、包帯を貰えば用済みのはずのこずえは、うろうろと落ち着きなく視線を彷徨わせている。
 暫くの逡巡の末、こずえはエリオットに再度視線を合わせて、静かな声で言った。
「入ってもらっていいかな。ちょっと、見てもらいたいことがあるんだ」
 その言葉に、少年は少しのあいだ固まった。当たり前だ、彼は物心ついたときより女性の部屋に許可なく立ち入らないようにとの教育を受けているし、ごく近しい血縁の女性以外の部屋に入ったことは今までない。
「いや、……入っていいのか」
「見て不快になるようなものはしまってあるから」
 微妙にずれた返答が返ってきたが、いつになく真剣な彼女の様子が気になったこともあり、結局少年は彼女の部屋に足を踏み入れた。
「扉、閉めてもらっていいかな」
 彼女らしからぬぞんざいな危機管理に、さすがに色々と問題があると感じたエリオットは、明らかに渋い表情になった。
「……もう少し警戒心を持ったほうがいいと思うぞ」
 エリオットとて自分の理性に絶対の自信があるわけではない。嫌がる女性に無理強いするような趣味は持ち合わせていないが、それでもお互いの為にふたりきりの密室状態は作らないほうがいいのではないだろうか。
 もっとも、そんな懸念は彼女とて想定済みだったらしい。ふっと笑顔になる。彼女は笑うことこそ多いが、自然な笑顔が零れることは実はごく稀で、少年はしばしその笑みに見入った。返ってきた言葉はなんとも微妙なものだったが。
「だって、エリオットがそういうつもりだったら、言葉が通じない段階で手を出されてるでしょ」
(……とりあえず信用されてるのか)
 喜ぶべきことなのだろうが、そこまで手放しで信頼されると、いろいろと複雑なものがある。
 微妙な表情を浮かべたまま、エリオットはこずえの部屋の扉を閉めたのだった。


「ごめんね、ちょっと他の人には聞かれたくなかったから」
 扉が閉まっての第一声がそれで、やはりとエリオットは確信した。この少女はヒルダとの仲は最悪だが、フェルティとはよくやっている。それなのにわざわざエリオットに話をするということは、フェルティにさえ知られてはまずいことが発生したのだろう。
「まず、確かめたいんだけど。……わたし、確かにさっき、怪我したよね?」
「ああ」
 何を言っているんだという思いを籠めて頷くと、こずえは沈痛な表情で「だよね」と短く返した。
「……信じてもらえないかもしれないんだけど。あの怪我が、わたしが部屋に戻った段階で完全に治ってたんだ。それこそ跡形もなく」
 エリオットが止める暇もなくこずえはワンピースの裾をたくしあげる。確かに、ついさっき怪我を負ったことが俄かには信じがたいほど、怪我の痕跡はどこにもない。
「この世界に魔法があるってことは知ってるよ。でも、こんなに早く怪我が治るなんてこと、あるのかな」
 エリオットは、ともすれば愕然とした表情を浮かべそうになるのを懸命に抑えた。目の前の黒い少女の声が、まるで泣き出す寸前のそれのように、震えていた。
「他にもね、おかしいことがあるんだ。わたしがこの国にきてもう三週間近いのに、髪が全然伸びてない。怪我が治ったのは魔法の所為だとしても、じゃあ、髪が伸びないのはどうして? わたし、いったいどうしちゃったんだろう」
 エリオットはまさかこんなに早く、という驚きと、やはりという納得の思いが、自分の中で鬩ぎ合うのを感じていた。
(もう、ごまかせない)
 カシェの薬のときは真実を伏せた。けれど自覚症状がでてしまっては、もう彼にはどうしようもない。
 そして、なによりも。
 不安に揺れる闇色の瞳を見たときに、彼の中で何かが動いたのだ。
 気丈で、賢い、強い少女だと思っていた。ルトロヴァイユで心のうちを聞かされるまでは、同年代だという実感が湧かなかったほどだ。
 だが。
(もっとはやく、きづくべきだった)
 見知らぬ土地にひとりで放り出されて、不安でないはずがなかった。いくらひとりで生きていこうとして背伸びをしているからといって、弱い部分はあるはずなのに。誰にもそれを曝け出せないまま、彼女は多分、ずっと無理をしていたのだ。
 そう思うと、たまらなかった。自分よりか弱い存在である女性に辛い思いをさせたと言うことは勿論あるが、それだけではなくて、間接的であったにしろ追い詰めた相手が、紛れもなく目の前の少女であるということに、ひどく心が痛んだ。
 短い付き合いではあるけれど、その中でさえ、この少女が実はとても心優しくて人の気持ちに敏感だということは十分にわかった。自分が傷つくことに過敏になっているのもあるのだろうけれど、他人の事情に土足で踏み込むことをしない、触れて欲しくないことに触れようとしない彼女の態度は、わずかであっても確実に少年のこころを癒したのだ。
 だからこそ、彼女が泣くところは、みたくない。彼女が傷つくところを、目にしたくない。
 不意に湧き上がった感情の名前を知らぬままに、エリオットは慎重に言葉を選んでいく。
「……お前には、魔力があるんだと思う」
「え?」
「カシェの薬を飲んだ時に、喉に痛みが走っただろう。あれは、薬が封印できる以上の魔力量を持っているということなんだ」
「え、いや、急に言われても。わたし、魔法を使ったことなんてないし」
 思ってもみなかったことを言われて混乱するこずえだったが、どういうわけだか気分が少し落ち着くのも感じていた。明らかな「異常事態」に、たとえ彼女の基準でいえば荒唐無稽なものであったとしても理由づけがなされたことが、精神を安定させる方向に作用したらしい。
 日本でいうなら、いきなり乗っていたエレベーターの中に閉じこめられて不安を感じている人間が、システムトラブルのせいだと告げられて幾分落ち着きを取り戻すのと同じ心理だ。根本的な解決は何もなされてはいないのだが、何も知らされないままいつ訪れるかもわからぬ救助を待つのと、現状に陥った理由を知っているのとでは、気分的に雲泥の差がある。
 そうして平静を取り戻すと、エリオットの発言に注意を向けられるようになった。
「たぶん、コズエの魔力量はとても多いんだ。だから、無詠唱で魔法を使っているということが考えられる」
「そうなの?」
 わずかに安堵した様子のこずえにちょっと微笑みかけてから、エリオットは腕を組むと、窓際の一輪挿しに目を遣った。そして目を閉じる。すると、一陣の風が吹いて、花びらが散った。
 エリオットは組んでいた腕を躯の両脇に下ろすと、また口を開く。
「要するに力の流れが想起出来ていれば、詠唱がなくても魔法は使えるんだ。ただ、かなりの集中力と魔力を必要とするから、使える者は少ないが。確かめてみるか? コズエに魔法が使えるのか」
「うん」
「じゃあ、今からいうことを復唱してくれ。――癒しの風を以って大地に花咲かす風の神、シルフィードよ」
「癒しの風を以って大地に花咲かす風の神、シルフィードよ」
 こずえが復唱した瞬間、僅かな違和感を覚えた。
「己が力を以って、」
「己が力を以って、」
「この地に風を起こせ」
「この地に風を起こせ」
 こずえが詠唱を終えた瞬間、ぶわっという音と共に、強風が部屋に吹き荒れた。たまらずエリオットは腕で顔を庇う。書き物机の上に置いてあった羽根ペンやら羊皮紙が、次々に机の下に落ちていく。窓際の一輪挿しが花瓶ごと絨毯に落下し、小さな水たまりを作った。
「コズエ、大丈夫か!?」
 時間にして数分の小さな嵐が通り過ぎてから、エリオットは少女に呼びかけて、――今度こそ驚愕のあまり目を零れ落ちそうなくらい大きく見開いた。
(――まさか)
「どうなってるの?」
 部屋の惨状を見詰めて呆然とした態でいる少女の服装は、まるで突風の影響を受けていなかった。彼女がこちらへむかって足を動かすと、彼女を風から守っていた水の障壁が、しゅるんと軽い音を立てて消え去った。
「……すごいな」
 もはやそれくらいしか言葉が見当たらず、エリオットは敢えて驚きの表情を消さぬまま、こずえに説明をしていった。
「風の魔法が、使い慣れていないから暴走したんだな。それを無意識下で察知して、魔力がひとりでに術者を守る結界を築いた、というわけか。つまり、風と水の魔法を一遍に使用したことになるな」
 ここにきて情報が飽和したらしい少女が、混乱した表情のままでややずれた質問をしてきた。
「えっと、それって危なくない?」
「危ないどころか、使いこなせればかなり有利になるぞ」
 何なら言葉のついでに教えるがと言ってやると、ぱぁっとこずえの表情が輝く。
「じゃあまず、属性についてだな。魔法を使う者はその属性によって、得意とする分野が変わってくるんだ。【炎】は破壊などの効果をもたらす攻撃魔法、【水】は結界などの効果をもたらす守護魔法、【樹】は束縛などの効果をもたらす補助魔法、そして【風】は治癒魔法――癒しの効果をもたらす治癒魔法だ。強い魔力を持つ者は、人間、魔物に関わらず自分の属性以外の魔法も使えるが、やはり威力が劣る。因みに、【地】は、他の属性よりも上位の魔法で、この属性の者は祝福などの効果をもたらす加護魔法が使える」
 ふんふんと頷くこずえをちらりと見やりながら、エリオットは体の脇に垂らしていた手に、ぎゅっと力を込める。
(コズエにはああ言ったが、……無自覚で結界を張れるわけがない)
 結界というのは基本的に多大な魔力を要する術で、だから使った後にかなりの疲労を覚えるものなのだ。初めて使ったのなら尚更。なのにこずえには微塵も疲弊した様子はない。

 とすると、答えはひとつ。





(コズエは、その身を蝕むほどの魔力を体に秘めている)








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