第4章 過去抱く花



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「うわあ……」
 魔法を使ったのだろうか、一瞬のうちに白い塔の前へと移動してきてしまったこずえは、驚いて二の句が継げない状態である。空高く聳える高い塔は、それが過ごしてきた年月の長さを物語るかのようにあちらこちらが崩れていた。
 少年はそんな彼女の様子に少し苦笑すると、その手を取って塔の中へと入っていく。塔の内部もやはり古びていて、壁が所々剥げていたり、天井に蜘蛛の巣が張ったりしていた。調度も最低限しか揃っていない。
 「姉さん、大丈夫? ごめんね、手荒に連れてきちゃって」
「あの、あなたの名前は」
 訊ねると、少年は悲しそうに目を伏せてから、穏やかに話し始めた。
「姉さん、本当にいろんなことを忘れちゃったんだね……姉さんの名前はフルールで、僕の名前はテールだよ。僕たちは、ここに住んでいるんだ」
(あ、)
 全く状況が判らないが、ひとつだけ判ったことがある。
(この子は、フルールっていうお姉さんと、私をとり違えてる)
 取りあえずひとつ情報が手に入った。
 けれど。
「見てわかると思うけど、ここが居間。そこの階段を上がると厨房がある。で、三階が僕の部屋。四階が姉さんの部屋だよ」
 テールと名乗った少年がこずえにかける言葉も、眼差しもとても優しいもので、だからこそこずえの胸が苦しくなった。自分はあなたの姉ではないのだと叫びたかった。
 けれどもそれは叶わない。
(だって、本当のことを言ったら、この子はきっと壊れてしまう)
 知識が浅いこずえにもわかる、正気を失いかけた瞳。彼が危ういところで正気を保っていられるのは、偏にこずえが彼の姉だと、姉が戻ってきたのだと、そう信じていられるからだ。
 この少年がどのような生活を送ってきたのかは、こずえには判らない。けれど、困窮した暮らしの中姉と支えあって生きてきたのは、ほぼ間違いないことだろう。そして、心からその姉を愛していたことも。
(でも、お姉さんは多分、なんらかの理由でいなくなってしまったんだろう。そして、テール自身はその事実を受け止めることが出来ていない)
 だから、こずえを姉だと思い込むことで、自分の精神を守ろうとしているのだ。
 テールの後に続いて螺旋階段をぐるぐると回りつつ、こずえは考えた。この塔は、すべての部屋が螺旋階段で貫かれているので、テールに見つからずに逃げ出すのは至難の業だろう。
(それに、さっきの魔法。逃げようとしてもたぶん阻まれる)
 テールがこずえを姉だと思い込んでいる間は、こずえに危害を加えることはないかもしれない。だが、もし逃げようとしてそれが失敗してしまったら。その思考が、こずえの歩みを遅くする。
(せめて、ここがどこなのかだけでも突き止めないと)
 考えているうちに、厨房らしき開けた空間に出る。ちょうど二人分の長さの椅子を指し示したテールは、こずえに「姉さん、座ってて」とだけ言った。
「待ってて、今姉さんの好物の焼き菓子を持ってくるから」
 にっこりと笑って、続ける。
「暫く楽にしてくれていいよ。姉さんはさ、いつだって僕のことを考えていてくれた。自分のことなんか後回しにしてさ。だから、今度は僕が姉さんを支えたいんだ」
 あの領主のことだって、断ってよかったのに。漏れた言葉は無意識らしかったが、こずえの耳はいち早くその単語を拾い上げた。
「あの領主?」
 訝しげなこずえの問いに、テールは一瞬にして気まずそうな顔になった。
「ごめん、姉さんだって、思い出したくないよね」
 即座に話題を切り替える彼に、表面上はにこやかに相槌を打つこずえ。だが内心では、全く別のことを考えていた。
(領主のこと。それが芳しくないできごとであったのは間違いないけど。どんなことだったんだろう?)
 断る、と言うからには何か頼みごとをされたのだろう。
(なにかを献上しろとか?)
 わざわざ弟ではなく姉に頼むくらいなのだから、労役の類ではないだろう。
(知識の類でもないだろうな。この世界では少なくとも一般の女性はろくに教育を受けてなさそうだし。……あ、)
「どうかした、姉さん?」
「ううん、なんでもないよ」
 こずえの纏う空気が一瞬冷えたのを感じ取ったらしいテールに笑い返して、こずえは「その」可能性について思索を深めていく。

(……愛妾になれっていわれた、とか?)





 場面は戻って、こちらは残された一行である。
 一旦は宿に戻った彼らであったが、とてもではないが休みを摂るどころではなかった。室内に落ちる沈黙が針のように全身を刺す。
 その沈黙は主に焦燥と苛立ちを全身から発散している銀色の少年が原因なのだが、へたに刺激すればなにをされるかわからないと言う理由から、誰も彼に声をかけることができないでいた。
 しかし、とうとう痺れを切らしたヒルダがエリオットに歩み寄るのを見て、セルディとフェルティはどちらからともなく顔を見合わせた。双方共に嵐の予感を嫌というほど感じ取っているのだが、ヒルダの身分が高いだけにあからさまに引き離すことが出来ないでいたのだ。
「エランディール様」
 呼びかけの声にも、少年は顔を上げない。だが、そんなことを意にも介さないヒルダは、自慢げに自説を披露し始めた。
「考えようによっては、良い機会ですわよ」
 エリオットがその言葉に訝しげな顔を上げるのと、残り二名が絶望的な表情を浮かべて顔を覆ったのはほぼ同時だった。
「あんなモノ、この機会に捨て去ってしまえばいいのでは? 邪魔になるだけでしょうし、それに、」
 そのまま滔滔と軽薄な台詞を続けようとしたヒルダは、自分に強い視線が向けられていることに気づいて、その毒々しいほどに赤い唇を噤んだ。怯んだ、と形容したほうがより適当だろう。



 絶対零度の、身を切り刻むという表現では生易しすぎるほどの、憤怒の視線。



 その視線をヒルダに向けている銀色の少年は、なまじ顔立ちが整っているだけに、怒りの表情にとてつもない迫力がある。普段から柔らかい表情を見せることは滅多にない彼だが、蒼い瞳がもはや氷刃のごとき鋭さでヒルダを睨みつけている。
 さすがのヒルダもいくら身分の差があるとはいえ、このまま言葉を続ければ問答無用で喉を掻き切られそうだという予感に、開こうとしていた口をそのまま閉じた。
「……ヒルダ様」
 押し殺した低い声に、王族としての矜持も忘れてびくりと体を震わせる。
「な、に、かしら」
「彼女を、」
 だが、続くはずの言葉はいつまで経っても出てこない。少年は珍しく視線を宙に彷徨わせ、言うべき言葉を捜しているようだった。だが、適当な言葉が見つからないようで、しばらく沈黙した後、無言のまま席を立った。
 そのころには大分彼の機嫌も直ってきたようだったが、彼が何を言いたかったのかを大まかに察したヒルダは、苛立ちに唇を噛みしめた。
(セルディナート様もエランディール様も、それにフェルティアーナも! いったいあたくしをなんだと思っているの。あたくしは王妹だというのに!)
 これまでヒルダは王族としての自分にやや行き過ぎなほどの自尊心を抱いていたし、周囲の者も彼女を国王の妹として丁重に遇してきた。だから彼女にとって、ほとんどすべての場面において自分の要求が通されるのは、太陽が東から上って西に沈むのと同じくらい、当たり前のことになっていた。実際に、彼女が自分より身分が上だと認識している者がいるとしたら兄たる国王くらいで、それも心からの敬意を払っているかというとかなり怪しい。
 そんな彼女にとって、この旅は苦行と同義だった。
 そもそも、どこの馬の骨ともしれぬようなものが旅に当たり前のように同行してきて、しかも自分が異を唱えたというのに平然とこの場にいるという時点で、ヒルダにはまったく信じがたい事態だった。しかも、この旅に同行してからというもの、残りの面々が事あるごとに卑賤の者に配慮し大切に扱っていることを認めざるを得なかった。特にエリオットに至っては何かと自分より「あのモノ」を気にかけていて、内心苛立ちを抑えきれなかったところにこの状況だ。
 彼女にとって「あのモノ」が自分より優先されたなど、考えるだけで腸が煮えくり返りそうな事態だったが、残念ながら意外に悪いわけではない彼女の頭脳は、その仮説が正しいということを主張している。
(わざわざ気に掛けるまでもなく、あんなモノ、なんの力もないただの屑ですわよ。だのに……)
 彼女にとって、モノはどこまでいってもモノであり、そもそも人間として扱うという選択肢は端から存在しない。だから彼女が「あれ」を嫌うのは、出会う前から決定づけられていたことだった。
 それでも。「あれ」が少しでもヒルダに抵抗なりなんなりを示したならば、ここまでヒルダの感情は悪化しなかっただろう。
 暴言を振るい、様々な嫌がらせを行う自分に向けられる目は、明らかに知性を有していた。卑賤の者にはないはずの聡明さが、確かに闇色の瞳には宿っていた。
 ヒルダとて意識の外ではとっくに気づいている。「あれ」が逆らわないのは、逆らえないのではなく、自分の意志で極力関わらないことを選択しているのだと。
 けれど、それを認めてしまったら。
 彼女の今まで生きてきた世界を支えてきたものが、バラバラになって崩れてしまう。王族や貴族を除くすべての人間には知性など僅かしかなく、それゆえに高い知性を有する自分たちが民に代わり国を治めてやらなければならないのだと、自分たちの生活を、自分たちの身分を正当化してきた前提が、覆されてしまう。どこの馬の骨ともしれぬ女でさえ高い知性をもっているのならば、――自分たちがこの身分にいる根拠は、なんだ。
 無意識下で気づいてしまっても、それを認めるわけにはいかなかった。自分というものが崩れてしまうのが恐ろしい。崩れた後にはまた新たな自分が再生するのかもしれないが、そのために今の何不自由ない生活を捨ててしまえるほどヒルダは思い切りよくはなれない。
 ゆえにヒルダは、「あのモノ」を否定しつづけねばならない。その扱いは正当ではないと心のどこかで気づいていたとしても、自分の優位を確認し、自分という概念を保つために。
(……とにかく、これ以上あたくしの立場を悪くするわけにはいかない)
 歩む道が間違っていたとしても、そこを突き進むことしか、もう彼女にはできなかったのだ。
 様々な思いに板挟みになるヒルダは、セルディが弟の去った扉を奇妙なくらい表情を消した顔で見つめていたことに、長い間気づかなかった。





「エリオット」
 呼んだ声に返事は返ってこない。セルディはもう一度、滅多に呼ばない本名のほうで、弟を呼んだ。
「エランディール」
「……なんでしょう、兄上」
 ゆっくりと上げられた顔に生気が薄いのは、兄だからこそわかることだ。表情の変化に乏しいこの弟の心中を慮ることは容易ではない。――もっとも、あの漆黒の少女なら、弟のこんな僅かな変化に気づくことが出来るかもしれないが。
 他愛のない考えを浮かべた己自身に苦笑して、彼は弟に一歩歩み寄った。
「気持ちはわかるが、そんなに思いつめていては体を壊す。情報収集は私たちに任せて、休憩を摂りなさい」
「……」
 穏やかに、諭すようにして伝えた忠告に、弟は沈黙を保ったままだ。普段なら敬愛する兄の言うことになら、一も二もなく従う彼であるのに。
――その変化を、そしてそれをもたらしたあの少女を恐ろしく感じてしまうのは、彼の考えすぎだろうか。
 最初のうちはとりわけあの少女になにか敵意を感じていたわけではなかった。むしろ、フィーネの手がかりになりうるのならとその存在を歓迎していたくらいだ。
 だが、――いつからか、歯車が狂いだした。
「お前は、フィーネを取り戻すために、コーディリアを必要としているんだろう」
 確認するかのように問えば、弟がはっと顔を上げる。半分予想通りの反応に、セルディはしっかりと用意していた釘を刺していく。
「忘れるな、彼女は手段であって目的ではない。手段を目的と取り違えるようなことが、あってはならない」
 一瞥すれば不本意そうな表情とも取れるその顔が、彼が傷ついたときに浮かべるものだと、セルディは知っている。そして、彼は更に確信を深めた。おそらく、本人に自覚はないのだろう。ヒルダに対して言うべき言葉を見つけることが出来なかったのも、自覚をしていなかったからだ。
 けれど、弟の中であの少女は、確実にその影を大きくしている。
(このままでは、コーディリアの為に、他のすべてをなげうちかねない)
 ならば、自覚をしてしまう前に、――彼女の為に全てを犠牲にする前に、その芽を摘まなければならない。
「まさか、入れ込んでなどいないだろうな」
「……いいえ」
 返ってきたのは常の彼らしくもない、小さく頼りなげな声。
 ああやはり、弟には自分が少女に情を移していないという自信がないのだ。
 残酷だとは百も承知していたが、それでも、この変化は弟に害しかもたらさないと彼は確信していた。もちろん彼女にも、と。
(本来なら、これは祝福すべきことだと思っていた)
 弟はこれまで、家族以上に大切なものを見出せてこなかった。そうさせてきたのは彼の家族だ。だからこそ、彼が家族のほかに拠り所を見つけられたら、どんなに良いだろうかと思ってきた。
 けれど。
「お前たちふたりは似ているから。だから共感しているだけでは?」
 そう、――このふたりは、根源的な部分で似すぎてしまっている。言語が同じでも分かり合えるとは限らないこの世界で、言葉にしないでも通じ合ってしまう部分が、確かにある。そんな少女に、弟が救いを求めるようになってしまったら。彼はきっと、何を犠牲にしてでも少女の存在を守ろうとするだろう。そしてもう既にその片鱗は見え隠れしている。それが、この青年が異邦人たる少女に脅威を抱く所以だった。
 敬慕している兄からの指摘にはっきりと刺された顔になった弟に、セルディはとどめの言葉を放った。
「もちろん、彼女を探し出すことには、私も全力で協力する。だが、くれぐれも――必要以上に感情移入をするな」





 貝のように沈黙してしまった弟に苦笑して、部屋を後にする。曲がり角を回ったところで、兄の婚約者に出くわした。
 数時間経って弟に睨めつけられた衝撃から回復したらしい彼女は、いつもどおりの男という男を骨抜きにしてしまいそうな蠱惑的な微笑を浮かべて、セルディに微笑みかけた。
「ヒルダ様……」
 困惑顔で名を呼んだセルディの様子に満足を覚えたらしい彼女は、いきなり本題を切り出した。
「セルディナート様、もうおわかりでしょう?」
 何が、とは言わない。けれどこの二者のあいだでは、なんの齟齬もなく会話が成立していた。にっこりとした笑みを浮かべる彼女。だがしかし、その笑みは毒々しいという言葉がぴったりくるようなもので、相手を安心させるようなものには程遠い。
 裏表のない、純粋な笑みといえば、むしろ。
 そこまで考えかけて、セルディはむりやりその笑みの主を意識から押し出した。ちょうどそのときに、ヒルダが再び口火を切る。
「あなただって、本当はあのモノを遠ざけたいと思っているはずだわ。けれどそれができないのは、フィーネ様の手がかりかもしれないから、それに、エランディール様の反感を買いたくないから。いいえむしろ、エランディール様に嫌われたくないから、かしら?」
 こちらに切り込んでくるような鋭い言葉に、セルディは黙ったままで困ったような笑みを浮かべた。
 ヒルダはよく言えば奔放、悪く言えば軽薄な性格をしており、それは彼女と面識のある誰もが知るところである。だが、しばしば偏見に基づいた短慮な行動に走る一方で、意外に頭が切れる面も持ち合わせていると言うことを知るものは少ない。
 その数少ない一人である青年は、ただ笑うだけで肯定に代えた。人当たりの良さそうなその笑みに、ヒルダは探るような、念を押すような目を向けた。
「あなたはあたくしを裏切らないわよね?」
 その言葉の裏に含まれた意味を感じ取った青年は、困ったような微笑のままで静かに頭を下げたのである。








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