第3章 久遠の緑樹



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 そして正午。さすがにエルダに差し入れを持っていこうという話になり、その役を担当することになったこずえはそろそろと扉を開けようとして――手が触れる前に扉が開いたので、慌てて後ろに飛びのいた。
 ゆらり、という音が聞こえた気がして、こずえは思い切り固まる。エルダはよろよろとした足取りで仕事部屋から出て来て――こずえに気づくなり背筋をしゃんと伸ばした。いい加減慣れたが切り替えの素早い人である。
「コーディリアさんでしたっけ? いいや、コズエさん? まあいいです、あの銀髪の方に薬ができたとお伝え下さい。……すみません、私はもう限界近くて……」
 榛色の眼のすぐ下に出来た青いくまからも、彼女がろくに休息を取っていないことは窺い知れたので、こずえは差し入れだけ渡すと銀色の兄弟を呼びに行った。
「……体調が悪いなら明日でも構わないぞ」
 エリオットもエルダの疲労具合を見てぎょっとしたらしく、気遣うような声を出す。
 それはそうだろう。少しの間にエルダはでろっと長椅子にしな垂れかかっていたのだ。それはもう、液体になって解けだすのではないかと心配になるくらいには。こずえの差し入れを口にする気にもなれないらしく。皿は湯気を立てる料理を載せたまま机の上に置かれていた。
「いえ、懸案事項がなくなってから寝ます」
 エリオットの声を聞き終える前に瞳に輝きを取り戻してつかつかと自室に入っていったエルダの背中を眺めながら、こずえは、彼女の恋人という人はさぞや大変だろうと、会ったこともない相手に同情の念を禁じえなかった。
「兄上、いきましょう」
「ああ」
 セルディとエリオットが入室した後を、こずえも追う。この世界の薬というものに、少しばかり興味があったからだ。エリオットの持っていた薬は一瞬しか見ていないので、この機会を逃すまいと薬の見えやすい位置に陣取る。
 部屋の真ん中に一つだけ置いてある古びた木製の机に、真っ白な皿が一枚置かれている。その皿の上に、翡翠色の錠剤がたくさん盛られていた。
 間近で見るとその薬は透き通った翡翠色で、錠剤ではなく飴玉だと言われたら、少しも疑わずに口に含んでしまいそうだった。
「ひとつ飲んでみるか?」
 その問いが自分に向けられたものだと気づくなり、こずえはすさまじい勢いで首をぶんぶんと振った。セルディも苦笑してこちらを見ている。どうもエルダの説明を中断させてしまったらしい。
「遠慮しときます! だって副作用強いんでしょ?」
「いや、魔力を持っていない人間にはまったくの無害だから」
 怖いもの見たさもあり、こずえはおそるおそるその薬を口にする。嚥下した瞬間喉にぴりっとした痛みを感じたが、それも一瞬のことで、すぐに痛みは消えた。
「へぇー、甘いんだ」
 感想を口にした瞬間、銀色の兄弟に揃ってぎょっとした顔をされた。
「え、え、どうしたの」
 厭な感じの沈黙。見ればエルダまで青い顔をして押し黙っている。
 待つこと数分、思いつめたような表情で、エリオットが説明をしてくれた。
「魔力を持っている人間には、この薬は甘く感じられるんだ。だから、俺は、……コズエの魔力を封印してしまったかもしれない」
 眩暈はないか、頭痛は!? とやけに必死な形相で問い詰められたが、眩暈も何も健康そのもののこずえは、当惑の色を隠せない。
「いや、確かに甘かったけど……飲んだときにちょっとピリッとしただけだよ?」
 なんとか驚きを宥めようとして口にした言葉に、ますます仰天した顔をされる。
「「…………」」
 二人揃って沈黙した後、セルディがとりあえずといった風情で口を開く。
「とにかく、コーディリアの魔力は封印されていないようだね。よかった」
「いやあの、全く状況が読めないんですが」
「気にするな、忘れろ」
「いやそんな無茶な」
「とにかく、このことは俺と兄上以外には伝えるな、いいな」
 あまりに横暴な言い分に反発しようとしたこずえだが、常にない異様な迫力でもって迫られ、思わずこくんと頷く。
 しばらく探るような視線(じっとりした視線ともいう)を三人に向けていたこずえは、それ以上情報を引き出せそうにないと悟ると、諦めて部屋から出て行く。
「……コズエに薬を飲ませたのは、正解だったかもしれませんね」
 罪悪感と驚きがないまぜになったような表情を浮かべ、エリオットは呟く。
「兄上?」
「え、ああ、そうだな」
 弟の不審げな声に我に返ったセルディは、すぐにいつものような穏やかな笑みをその美麗な顔に乗せたが、その裏で訝りを止められずにいた。
(あのひとがおっしゃっていたのはこのことか……?)
「では、これを」
「ああ、ありがとう。これは謝礼だ」
 薬の謝礼を受け取ると、エルダはそっと部屋を抜け出し、二階にある寝室に入る。そして、隅の本棚から古びた本を一冊取り出して、折り目のついている頁を開いた。
「……『カシェは、服用者の魔力を封印する薬である。たいていの人間は、この薬を飲んだらその後一生魔法を使用できなくなる。魔力を封印された場合、副作用として眩暈や頭痛が起こる。魔力を封印された反動で精神に異常をきたしてしまう人間も少なくないので、調合には細心の注意を払うこと。尚、咽喉に刺すような痛みが走る場合、――』」
 その次に書かれていた文句が自分の覚えていたものと一字一句違わぬことを確認すると、エルダはなんともいえぬ複雑な表情を浮かべた。
 そうして、糸が切れたようにして、今度こそ彼女は寝台の上に倒れこみ、盛大に寝息を立て始めたのだった。





「さて、薬も手に入ったことだし、行くか」
 エルダの部屋から出て来るなりエリオットがそう言いだしたので、各自さっさと荷物をまとめ(ヒルダはまとめるのに時間がかかっていた)、出発の準備が整った。
 一応はエルダに挨拶をしていくべきかと思い、こずえは寝室を覗いてみたが、熟睡中のようなのでそっとしておくことにした。
「エルダさんぐっすり寝てた。たぶん一日中寝てるんじゃないかな……」
「わかった」
 全員出たところでフェルティが家に向かって一言二言呟いた。なにをしているのかとこずえが手元を覗き込むと、「だって女性が鍵もかけずに寝ていたら危ないわ」との返事が返ってきた。つまり魔法で家に鍵をかけたらしい。
 エルダの家を出て少し歩いたところで振り返れば、ヴェールの樹が大きくその枝葉を広げているのが見える。
(……葉っぱつけてるところ見たかったなぁ)
 それが少し心残りで、それでも仕方ない、と思って歩き出そうとした刹那。柔らかい風が、こずえの髪を攫った。
「?」
 風邪と共に、ひらひらと手のひらに降りてきた葉。椿の葉に似た光沢があって、どことなくスペードを連想させた。
「おや、ヴェールの葉だね。どこからか風に運ばれてきたのかな。知ってるかい? ヴェールといえば樹液で有名だけれど、葉にも薬効があってね。刻んで煮込むと解毒剤になるんだ」
「セルディさん、詳しいですね」
「実は私は、薬に興味があってね。――コーディリア、どうかしたのかい」
 こずえは脳裏に響いた声に、一瞬立ち止まる。先程の風のような、柔らかな声。



――ありがとう、エルダに会わせてくれて。



「コーディリア?」
 訝しげな声。こずえはゆっくりと首を振った。
「――いいえ、なんでもないです」
 そうして、葉と共に届けられた感謝にそっと微笑むと、葉をポシェットにしまいこんで、こずえは仲間の元に歩いていったのだった。







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