第3章 久遠の緑樹



BACKTOPNEXT


 軽い音と共に地面に降り立った少年はいつかと変わらない外見で、対するエルダは背も伸び顔立ちもぐっと大人びて、あの日この樹で泣いていた面影はない。
 けれどエルダは、彼を見るなりふわりと微笑んだ。
「――久しぶり」
「覚えていて、くれたんだ」
「当たり前でしょう?」
 ふふ、と鮮やかに笑ったエルダは、一転して不安げな表情を浮かべた。
「ねぇ、わたしの昔話は、君に届いたのかしら」
「うん。……でなきゃ、この樹を救ったりはしないよ」
「そう。……そうよね」
 落ちる沈黙。エルダのくちびるは長い空白のときを埋めるような言葉を捜してぱくぱくと開閉を繰り返したが、結局出てきたのは身勝手な内容だった。
「町長さんに掛け合って、無茶な収穫はやめるようにお願いしてみるわね。――そうしたら君は、これからもこの樹を守ってくれるかしら」
 けれど少年は、そんなの当たり前だと言うかのように、やわらかく微笑した。
「確かに、頼まれたよ」
 ほっとした瞬間、言わなければならないことはするりと口から抜け出した。



「わたし、結婚するの」



「――知ってる」
 少年はひとつ微笑して、そのままの顔でかつての少女を見た。
「元気でね」
 ――あの日ここで泣いていた君に声をかけたのは、ずっと君と話をしてみたいと思っていたからだ。真剣な表情で頁を捲るその横顔に、いつのまにか惹きつけられていたからだ。
 あの日君は、僕を綺麗だと言ってくれた。ヴェールの樹は有用だけれど、人々の目を惹きつけるような鮮やかな緑じゃないってこと、僕は知っていたから。だからこそ、君の言葉がどれだけ僕のこころを温かくしたかなんて、君は思いも寄らないんだろうね。
 君は僕を綺麗と言ってくれたけど、僕の目には、君はどんな花よりもうつくしく見えたよ。陳腐な台詞しか出てこないけど、でも、いまわかった。僕も君と、もう一度話をしてみたかったんだ。
 ひとと樹。絶対に結ばれない僕ら。だから、最後まで伝えなかった想い。
 それが君の枷になるなら、それは自分の胸にしまっておこう。
「私はもう少しでこの街を出るけど、いつか私に娘ができたら、そのこと一緒にあなたに会いにくるわ」
「――うん。楽しみにしてる」
 たとえ言葉に出来なくたって、彼女のこども、その子、さらにその子を見守っていられるならば。それはこの上もない幸福だ。
 そんなことを考えながらエルダに向き直ろうとした少年の、その頬に触れた柔らかな感触。彼は目をまん丸にした。
「さようなら、またいつか。――ほんとうに、ありがとう」
 眦に涙を浮かべて差し出された、感謝の言葉。――きっと、少年がこの地に住まうかぎり、永遠に彼の道を照らす輝き。
「あ、」
 どうして涙が出るんだろう。哀しくなんてないのに。最後に彼女と会えるだけで良いと思っていたのに、思いまで通じたじゃないか。ほら、今僕は笑っている。


 涙を止めようと言葉を連ねてみたけれど、頬を濡らす涙はどうしたって止まらなかった。



さよなら、さよなら。――また、いつか。





 エルダが家に戻ってきたのは、日がとっぷりと暮れた後だった。戻ってきた彼女はもう泣き止んでいて、眦に、微かに涙の跡が残っているだけだった。
 気遣いの視線をちらちらと寄越すこずえたちに、彼女は静かに言った。
――カシェの薬を作るのには三日かかるから、そのあいだ待っていてください。
 樹液を手に自室に籠もった彼女に、ヒルダでさえ声をかけられず――

 今日が、その三日目だった。

 三日も同じところに居るとすることがない。いや勉強は捗るのだが。
 こずえは実は、少し前からエリオットに教わって読み書きを習っているのだ。主に学んでいるのは、基本的な文法、よく使う言い回し、それに日常会話で用いる語彙など。
 あまり考えたくはないが、万一エリオットとはぐれてしまった、もしくは彼に放り出されてしまった場合、こずえは一人で生きて行かなければならない。まさかランセ王国が日本並みの識字率を誇るとは考えにくいし、読み書きができれば職にありつける可能性も高いとこずえは考えた。
 因みに、自動翻訳機能は会話でしか発揮されないらしいのが、こずえには残念でならなかったりする。
 基本単語を十回ずつ綴っていると厭でも思い出すのが、今が夏休みであるという事実だ。最初はにょろにょろとした蚯蚓のようだった文字が、やっとのことで文字らしくなってきたことに少しだけ笑んで、日本から一緒に持ってきたルーズリーフの隅っこに、evolutionやconfusionと綴ってみる。
(まだ二週間ちょっとだからいいけど、これがふた月以上になったら……)
 日本に戻った途端に山盛りの宿題を前にして頭を抱える自分の姿がこれ以上ないほど明確に想像できて、こずえはうぅと呻いた。
 ていうか中間試験の最中に戻ることになったらどうしよう、というのも割と切実な命題である。この世界にサインコサインタンジェント、Σがどうのこうのと説明してくれる先生も参考書は存在しないのにいきなり中間試験を受けるなんて、ひのきのぼうと皮の盾でラスボスに立ち向かうようなものだ。無茶ぶりすぎる。
「コーディ」
 反応が遅れた。もう一度こんこん、と扉を叩く音がして、こずえは慌てて扉を開けた。
「もう、コーディってば」
「え、ああ、どうしたの、フェルティ」
「なんとなく、何をする気にもなれなくて。お話し相手を探していたところなの」
 いつも活発で生命力に溢れた印象が強かっただけに、こずえは意外さに目を丸くした。
 フェルティは静かに部屋を横切ると、こずえがルーズリーフやシャーペンを放り出したままの机に歩み寄り、ふたつあるうちの、こずえが使っていなかった方の椅子に腰を下ろした。彼女も、最初こそこずえの持っている色々な物を不思議そうな眼で見ていたが、しばらく同室で過ごすうちに慣れたらしく、今では何も言ってこない。女性三人の中では、こずえと同室になるのを渋ったヒルダのみ別室で過ごすのがなんとなく定着していた。
 因みにエルダの家は大きさこそ小さいが、部屋数は結構あるのだ。
「……エルダ、出てこないわね」
「うん」
 見る限り一回も部屋の外に出ていないので、栄養どころか睡眠も十分に取っていないのではないかと心配なのだが。
 視界の端で、フェルティがぎゅっと手を握り締める。覗きこめば、どこか辛いような痛いような表情を浮かべたフェルティがいた。
「わたし、エルダが羨ましいわ」
「……なんで?」
 純然たる疑問。恵まれた環境で育ち、類まれな美貌に抜きんでた知性をもっている彼女。婚約者たるセルディに蔑ろにされている様子もない。
 ふふ、とフェルティは、力なく笑った。
「だって、ヴェールの中には、エルダしかいなかったんですもの」
「セルディさん、まさか浮気」
 一転して蒼白になったこずえを見て、フェルティの顔に少しだけ生気が戻った。
「違うわ。ぜんぜん違うわ。もう、どうしてそうなるの、コーディ。セルディ様は誠実な方よ。ちゃんとわたしを婚約者として扱って下さる」
 でも、あのかたは。
 そこまで言って沈黙してしまったフェルティにどう言葉をかければいいのか決めかねた。
 しばらくこずえが待っていると、フェルティは、なにかを決めたように「ええ」と呟いた。
「これ以上お話ししても、暗くなるだけだから。やめておくわ」
「……そう」
 こずえは言葉少なに肯くことしかできなかった。フェルティが拒むのなら、それ以上深入りはしない。いつかまた話してくれる気になったらでいい。深入りできるほどの親密さではないから。
 そもそも。
 こずえにとって一番不可解なのは、なぜフェルティが終始こずえに好意的な態度を貫き通しているのかということである。
 こずえはこの世界に来てから、黒髪の人間も黒い瞳の人間も一度も目にしたことがない。金髪やら銀髪やら茶髪やら果ては緑髪まで目にしたが、黒髪だけは一度も見ていない。聞くところによれば、黒髪の人間も存在はしているのだが、絶対数が少なく、ほとんど目にすることはないのだとか。
 その珍しい黒髪に黒い瞳まで持ってしまっている自分。もちろん日本人としては本当にありふれた容姿であるけれど、この国のひとはきっとそうは取らない。縁起の悪い存在か、――でなければエリオットと知り合う切欠になった盗賊たちのように、鑑賞の対象としての珍しい動物くらいに思う人間のほうが多いのではないだろうか。
 こずえだって動物として見られると考えるのは虫唾が走るほど厭だが、あの男たちの視線は、どう好意的に見積もってもこずえを自分達と対等な存在とみなしていなかった。
 また、こずえには力が無いから、わざわざ味方ぶる必要もない。だから、フェルティの態度には恐らく裏表がないのだろう。
 だから、純粋に、わからないのだ。
 なぜ、貴族の令嬢として育ち、いわば既成観念に晒され続けたであろう彼女が自分に好意を寄せてくれるのかが。
「だってコーディは、わたしにできた初めてのお友達だもの」
 囁くように言われた言葉の意味を考えること数秒。
「え?」
「なんでフェルティはわたしに好意的なんだろう、って、今言ったじゃない」
 まさか、考えたくないが、――思考をそのまま口に出してしまっていたのか。
「……他には?」
「え?」
「他になんか口に出してた? ていうかわたし普段からそうなの!?」
 思考が駄々漏れだなんて、危機感が欠如していると言わざるを得ない。口に出しちゃいけないことってこの世界に沢山あるのに、と、こずえはだんだん悲しい気分になってきた。
「あーてことはあの人たちに会った時言葉が通じなくてよかったんだねー。だって怒らせたら襲いかかってきそうだったし。あーよかったーあははー」
 壊れ気味のこずえを半ば引いて見つつフェルティが冷静に指摘した。
「いいえ。わたしが聞いたのはそれだけだし、こずえが他に独り言を言っているのを、聞いたことはないわ」
 嘘を言っているようには思えない返答を聞いて心底安堵したこずえの意識は、自然と先ほどのフェルティの発言に戻る。
「わたしが初めての友達って、どういうこと?」
 フェルティは器量も性格も抜群に良い。それなのに友達ができなかったなんて、俄かには信じがたい。
「だって、わたしをちゃんと見てくれるひとなんて、わたしの周りにはいなかったんですもの」
「え?」
「わたしは――年齢に不似合いなほど、大人びているんですって。わたしよりずっと年上の方達は、賢い、聡いって賛辞の言葉を下さるけれど、同年代の方達は、そんな言葉を聞くと、厭な顔になるのよね」
 フェルティは過去に向けられた褒め言葉を、まるで疎ましいものであるかのように低い声で口にした。
「同年代の子でも、わたしをうつくしいと言ってくれるひとはいたわ。けれど、そういう響きは、あんまり好ましいものではなかった。たまに近づいてくるひとでさえ、『公爵令嬢』としてのわたしに興味を持ってくれてはいても、『フェルティアーナ』としてのわたしには露ほども興味を示さない人たちばかりだったの」
 いっそ恵まれすぎるほどに色々な分野に秀でて生を享けてしまった彼女。羨望と嫉妬。それらは彼女を同年代の子供達から遠ざけた。
「一度ね、親友だと思っていた子がいたことがあるの。十二のときだったかしら。そのこは、わたしを必要以上に褒めたりしないで、いつも面白い話をしてくれたの。一緒にお芝居を見に行ったこともあるわ」
 でもね。明るかった声が沈んだ。
「或る日その子に言われたの。忘れもしない、セントソフィアで開かれる夜会の前日だったわ。『フェルティアーナさん、わたくしを、エランディールさまに紹介してくださらない?』って」
 ほら、エリオットって、顔だけはいいから。どこかで聞いたような台詞を口にする。
「わたし、それを聞いてから、いろんなことが莫迦らしくなってしまったの。そのこには、わたしは、『エリオットに近い』っていう価値しかなかったのに、それに気づかないで浮かれていたわたしが、本当に惨めに思えた」
「……」
 返す言葉が見つからずに押し黙ったこずえに、フェルティは一転して自然な笑顔を向ける。
「でもあなたは、コーディは、まるでわたしの爵位や、立ち位置、その他わたしに付随する色々なものが、どうでもいいみたいなんですもの」
「いや、さすがにどうでもよくは……」
「わかってるわ。わたしが言いたいのはね、たとえわたしが貴族じゃなくて、どこかの町娘であったり、それ以下の身分であっても、あなたはわたしに対する態度を変えなさそうっていうことよ。それはわたしにとっては、何よりも重大なことなのよ」
 だからわたしはコーディのことがだいすきなのよ、なんの衒いもなくそう言われて、こずえは僅かに赤面しかけ――ふと思い当たったことを口に出した。
「エリオットは? 仲いいよね」
 こずえの言葉に、フェルティは心底げんなりした表情になった。
「いいえ、エリオットは友達じゃないわ! あんなのとお友達だなんて、こちらから願い下げだもの!」
 拳を振って力説された内容に、こずえは内心小首を傾げた。初対面でもお似合いだと思ったが、こずえの見るかぎり彼らは非常によく気が合っている。口に出すつもりはないが、エリオットに同じ質問をしたら、言い方は違えど中身はそっくり同じ回答が返ってくるのではないかと思えるほどだ。
 それなのに普段温厚なフェルティにここまで言わせるとは、エリオットは過去に何をしでかしたのだろう。
 つらつらとそんなことを考えていたので、反応が一拍遅れた。
「仲がいいって言ったら、むしろコーディだと思うわ」
 どこか、悪戯っぽい笑顔。フェルティは表情をくるりと変えて、こずえをにこにことして眺めている。
「え?」
「わたしね、コーディって、エリオットに似てるって思ったの。今では益々そう思っているわ」
「どういうこと?」
 そのあと、こずえはしつこくフェルティを問い質したが、フェルティは鮮やかに笑うだけで、答えてくれようとはしなかった。







BACKTOPNEXT
copyright@ Mitsuki Minato 2011- Since 2011.10.22.