第3章 久遠の緑樹



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「守護妖精だな」
「え?」
 地上に戻ってからしばらく休憩をしたこずえが、上の様子について聞かれて樹皮が光っていたという話をすると、返ってきた第一声がそれだった。いつものとおり、エリオットが丁寧に説明してくれる。
「樹齢三百年を超えるような樹に、守護妖精が棲んでいて、その木を病や他の魔から守っているのが普通なんだ。今では大分その数を減らしていると聞いていたが、この樹は別なんだな」
 しかし妙だな、と言って腕を組む。
「守護妖精がいるなら、ここまで樹が荒れるのはおかしい。守護妖精と樹は命運を共にするから、樹の保持をしなければ守護妖精もろとも命を落としてしまうのに」
 なんとなく続く言葉が読めたこずえは、そろりそろりと後ろに後退する。いくら揺れが少なくて快適な乗り物だったとはいえ、しばらくあの籠には乗りたくない。
 果たしてエリオットはその言葉を口にした。
「フェルティアーナ。ヒルダ様に兄上、それに俺も、上へ運んでくれないか」
「いいわよ。でもそうするとコーディが……」
「ああうん、わたしなら大丈夫だからどうぞ置いていって下さいむしろお願いします」
「なら、置いていきましょうよ。邪魔ですし」
 邪魔に強勢が置かれた嫌味にこずえの笑顔が思わず引き攣る。足手まといだとは自覚しているが、さすがに面と向かって言われるとなかなか堪えるものがある。
「いいえ、そういうわけには参りません。ここに残って、何かに襲われて行方をくらまされたら、そちらの方がよほど面倒です」
 庇っているのか貶しているのか果てしなく曖昧なエリオットの言葉にむぅと膨れたこずえだったが、「地表から離れているのが見えるからまずいのか?」と聞かれて反射で答えた。
「あー、うん……落ちそうですごく怖い」
「つまり下の景色が見えなければいいんだな?」
「え、そうだけど」
 なら、と言って今度はフェルティに向き直る。
「おまえの専門分野じゃないか?」



 結局こずえは、フェルティの手によってゴンドラが上昇しても景色の変化がわからないようにしてもらった。フェルティの属性は樹なので、幻惑の呪文が一番の得意分野なのだという。
「本当に大丈夫なんだよね」
「いざとなったら風の魔法で地上に転送するから安心しろ」
 不安を籠めた疑わしげな視線をエリオットに送ってから、こずえはゴンドラに乗りこんだ。確かに籠に乗ってしばらくしてもこずえの周りの景色は変わることはなく、籠から降りればすぐに地面に足が届きそうだった。

――勿論、怖かったので、試してみる気にはなれなかったが。





「それで、光っていたのはどのあたりだ?」
「ええと、多分もう少し上、……だと思う」
 そんな遣り取りを繰返すこと何回目かで、やっとこずえは先程の場所を見出した。不思議なことに、他の景色に変化は見出せないのに、樹の幹の一部が光っているのだけははっきりと視認出来た。
「あ、ここだ」
「ああ、確かにな。フェルティアーナ、あそこに寄せてくれ」
「わかったわ」
 光っている部分の真正面に来ると、エリオットが籠から身を乗り出し――すい、とその姿が樹の中に消えた。
「私達も参りましょうか、ヒルダ様、フェルティアーナ様」
「ええ」
「はい!」
 このひとは、女性陣をエスコートする姿がいちいち様になっている。たぶん自分を呼ばなかったのは、ヒルダの悪意に必要以上に曝されないためで、そういった気遣いも本当に濃やかだ。
 そんなことを思いつつ、こずえも樹にぎりぎりまで身を寄せた。あと少しでぶつかるというところまで来て反射的にぎゅっと目を瞑ると、するっと、まるで限りなく薄い膜を突き抜けたような感覚があった。顔を上げれば、目の前には残りの全員がそろっていて、――彼らの先には、見慣れない少年が蹲っていた。
 闖入者に気付いたのか、膝を抱いていた少年が顔を上げ、そこで初めて一行は彼の顔立ちを目の当たりにした。
 新緑色の瞳に、それよりやや透明感のある色の髪。蔦の模様があしらわれたローブは生成り色だ。面立ちは幼いのに、外見に似合わないほどの鬱屈とした雰囲気を纏っている。
「――人間がここに来るのは、どのくらいぶりでしょう」
 最初こずえは、それが目の前の少年から発せられたものだとは分からなかった。せいぜい五歳くらいの外見の少年だというのに、彼から発せられる音は青年のそれと変わらない。
「見たところ、守護妖精のあなた自身が外傷を負っている訳ではなさそうだが」
 エリオットの確認に、彼は穏やかにそうですよ、と笑む。穏やかなのに、それ以外の感情の感じられない、薄っぺらい笑みだった。
「では、単刀直入に聞くが、なぜこの樹はこんな状態になっているんだ? 樹が弱っているのに、気づいていない訳ではないのだろう?」
「僕は、飽いてしまったんです」
 エリオットの声に被せるように、少年は言う。そうして、ますます強く自分の体を抱きしめた。まるで、外界から閉じ籠もるように。
「――初めのうちは、人間たちとも上手くやれていたんです。人間たちは生きていくのに必要な分だけこの樹の樹液や果実を採取していったし、なにより、人間たちはきちんと僕にお礼も言ってくれたから、彼らの役に立つのは嫌じゃなかった」
 でも、と暗い声が続く。
「ここ二十年ほどのあいだで、ここに住むひとたちは変わってしまった。僕の樹液が高く売れるとかで、樹の状態に配慮せずに搾り取れるだけ樹液を取っていくようになってしまったんです。樹が満身創痍になって樹液を出せなくなったら、斧を叩きつける、足で蹴る。それでいて、それでも樹液が出ないと手のひらを返したように肥料やなにやら持ってくる。――彼らは、この樹だって生命をもっているということを、忘れてしまったんですね」
――ヴェールの樹液は、高価な薬には欠かせないもの。だからとても高値で取引されているんです。
 エルダの言葉が頭に響いて、こずえは瞬間、言葉を失った。
「樹液の乱獲で、この樹が力を失ったということか……」
 暗い表情で、エリオットが呟く。確かに、それだけ人間の身勝手さに触れれば、樹を保つ意欲も失せてしまうだろう。
 だが、エリオットの言葉に、少年はふるふると首を振った。
「いや、決定打は、この樹に寄生した魔物です。彼らは人間たちが絞り出せなくなった樹液を、容赦なくこの樹から吸い取っていく。――間も無くこの樹は、死んでしまうでしょう」
 予想だにしなかった事態。沈黙してしまった一行の中で、ひとりの少女が歩み出る。フェルティは、丁寧な仕草で少年に頭を下げた。
「それを防ぐために、わたくしたちがここに来たのですわ。わたくしの大切な友人が、この樹液から作る薬を必要としています。ですから今一度――この樹から樹液を取れるようにしてもらえませんか」
 欠片も尊大な調子のない、真摯な声。けれど少年はゆっくりと首を振り、また抱えた膝に顔を埋めた。まるでもう何も見たくないのだと言うかのように。
「話が長くなってしまいましたね。――でも、僕には、この樹を救ってもらうつもりはない。これ以上生きるつもりもない。僕への、樹への感謝を忘れた人間たちと交流することに意味はない。このまま静かに朽ちて、大地に還ろうと思っています」
 淡々とした、けれど反駁を許さぬ声にその場の空気は、しん、と冷える。





 どさりと椅子に身を投げ出して、セルディが呟く。
「……参ったな」
 気がついたら樹の内部から出されていた一行は、一旦エルダの家に戻っていた。セルディが言うには、「守護妖精に拒絶されたんだろうね」だそうで、今のままでは会話をすることすら難しいらしい。
 頼みの綱であるエルダは仕事部屋にいるらしく、「声をかけないでください」の札がかかっているので、こずえたちはどうすることもできずにいた。
 最初はなんとなくエルダの仕事部屋の前に居残っていたエリオットやフェルティ、それにヒルダも各自に割り当てられた部屋に戻り、いま仕事部屋の前に残っているのはセルディとこずえだけだった。
 余談だが、何が気に食わなかったのか部屋を出て行くヒルダに足を思い切り踏ん付けられたこずえであった。赤くなったであろう足の甲を擦りつつ、こずえはセルディを見上げた。
「……あの、」
 沈黙が居た堪れなくて慎重に口を開くと、視線で問われたのでおそるおそる問いを口に出す。
「さっきの守護妖精の男の子のことなんですが。ときおり彼の言葉が、まるで彼自身がヴェールの樹であるように聞こえたんです」
「守護妖精は長いときを樹と共に過ごすうち、住まう樹と意識を共有するものも多いと聞いている。たぶん彼もその内の一人なのだろうね」
 「大人しく渡してくれれば良かったものを」と呟いた声音に目を瞠る。このひとには珍しく、苦りきった声音だったからだ。
「あいつにとって、あの薬は必要不可欠なものだ。だから……いざとなればあの樹を枯らしてでも樹液を採取しようと思ってる」
 魔物ができるんなら、魔法を使えば不可能じゃない。そう続けられて、こずえは言葉を失った。そんなこずえを横目で見ながら、セルディは自嘲するかのように笑った。
「ああ、知ってるよ。正しいやり方じゃないってことくらい。きっとあいつだって反対するだろう。でも、」
 一拍置いて、続けられた言葉。
「私にとって何より重要なのは――、家族、なんだ」
 その言葉は、やけにしっくりとこずえがセルディに対して抱いてきた印象と合致した。フィーネのことを聞いているときの真剣な表情。エリオットを見守るときの穏やかな目。
「……私、自分の部屋に戻りますね」
 何となく、今の彼の前に残ってはいけない気がして、こずえは踵を返す。扉に手をかけた瞬間に、「コーディリア」と呼ばれ、上体だけで振り返った。
「はい」
 そのときのセルディの顔は、何とも言いがたいものだった。慈愛と冷酷が同時に存在しているかのような瞳で、彼はこずえをひたと見据えた。
「だから、もし君の存在が家族の分裂を招くようなことがあれば、私は躊躇なく、君を切り捨てられるだろう」
 扉を閉める瞬間に届いた声が、こずえの耳に強く焼きついた。





「……そうですか、守護妖精が……」
 一時間半ほどして仕事部屋から割合まともな足どりで出て来たエルダは、ちょうど様子を見に来たこずえから事情を聞いて、表情を暗くした。
「私たち、気がついたら外に出されていて。彼に拒絶されてしまったみたいです」
「……そっか。わたしは、君をひとりにしていたんだね」
「え?」
 場違いな独白にこずえが戸惑いの表情を示すと、エルダははっとしたような表情になった。
「いえ、……なんでもないです。それより、あなたがたはこれからどうなさるんですか? この街を発ってしまわれるのでしょうか」
「いえ、エリオットが言うには、日を置いてもう一度だけ見に行ってみよう、と」
「なら、」
 続いた言葉に、こずえは瞠目する。
「わたしも、ついていっていいですか」





「ここに来るのは、久し振りです」
 三日後、こずえたちに同行してヴェールの樹までやってきたエルダは、嬉しそうにはにかんだ。それが心からの表情であるのが周りにまで伝わってくるような、きらきらとした笑顔。
「この樹が葉をつけているところは、それは綺麗なんです。……この街を離れる前に、もう一度だけ見ておきたかった」
「え?」
「わたし、結婚するんです。挙式は二週間後。彼は別の街に住んでいるので、わたしがこの街を出ていくんです」
 こずえは顔にこそ出さなかったが、内心かなり驚いていた。わからなかった。恋人が泊まりに来ているような痕跡すら、エルダの部屋にはなかったから。
「――仕方、ないんですよね。守護妖精を怒らせてしまうようなことを、わたしたちがしてしまったんですから」
 仕方ないと言いつつも、エルダがまだ諦め切れていないのがはっきりと伝わってきた。
「守護妖精がいることは?」
 エリオットが静かに訊ねると、エルダは微かに笑った。
「ええ、いるのかなとは思っていました。――わたし、昔ここで不思議な男の子に会ったことがあるんですよ。おかしなことに、その子は髪も目も澄んだ緑色で、まるでこのヴェールの樹みたいだったんです」
 エルダとこずえを除く一同は一人残らず瞠目した。住まいまでやってきた人間を自らの領域に招き入れることはあっても、自ら人前に姿を現すことがないと言われている守護妖精に彼女が会っていたことは、驚愕に値した。
「わたしは母と不仲で。わたし、こう見えても学院ではけっこう優秀な成績を修めていたんですよ。でも、母はけしてわたしのことを認めようとはしてくれなかった。どんなに努力しても評価してもらえないんです。今から思えば、母はこどもだったんですよね。こどもだったから、娘のわたしが彼女を越えることを許せなかった」
 ヴェールの梢を見上げて語るエルダの目が、柔らかに細められた。
「その日も、学年で一番を取ったので、意気揚々と母に報告したんですけど、『なんですか、これぐらいの点数しかとれないの?』って。さすがに耐え切れなくなって家を飛び出して。この樹に登ってひとりで泣いていました。そうしたら、急に声がかかったんです。どうしたの、って。視線を上げたら、そのこが困ったような顔で私を見ていたんです」
 しゃくりあげながら途切れ途切れに語ったことが、彼にちゃんと伝わっているか、かなり心許なかったのだと言う。だが。
「彼は言ったんです。僕は君のいう学院っていうのが、どんなものかは詳しく知らない。でも、――君が頑張っているの、僕はよく知ってるよ、って。君が何時間も何時間もこの樹の根元に座って勉強していたのが、ここからは良く見えたって」
 あの捻くれて厭世的になっていた様からは想像もつかないが、あの守護妖精にもそんな時期があったらしい。エルダは瞳にこれ以上ないくらい穏やかな色を浮かべた。
「……わたしそれで、ますます泣いてしまったんです。罵倒はいい加減聞き飽きるくらいだったんですけど、あんなに温かい言葉は、久しく聞いていなかったから」
 そして、エルダが泣き止んで落ち着くまで、彼は黙って傍にいてくれたのだという。
「それから、その子はわたしに聞いたんです。なんで毎日この樹に来て勉強しているの、って。だからわたしは、だってこの樹はとっても綺麗だからって、そう答えたんです。そのときの彼の顔こそ見ものでした。ぽかん、っていう顔をして、わたしの言葉が信じられないみたいでした」
「ややあって彼は言ったんです。てっきり、こどもが余りこないから集中しやすいだけなんだと思ってた、って。……それから、ありがとう、って本当に嬉しそうに言っていた。そうして別れ際に、彼は言ったんです。多分もう会うことはないだろうけれど、君がどんな風に過ごしているかは、ずっと見守っているよ、って。別れてから気がつきました。彼は、このヴェールの守護妖精だったんだなって」
 言葉を切り、エルダは頭上を見上げる。樹の梢が風もないのに揺れてざわざわと音を立てる。
「――それからずっと、この樹は、わたしの支えとなってるんです。その子にはそれから会っていませんでしたけど、彼が見てくれているというだけで、わたしは、母との不仲も乗り越えられた」
 それなのに。声に張りがなくなった。――気づいてあげられなかったんです。
 エルダはヴェールに歩み寄ると、ざらりとした樹の肌に手を当てて、まるで自分が痛みを堪えているかのような表情を浮かべた。
「君は、ずっと辛かったんだね。ひとりで孤独に耐えて、人間の身勝手に耐えて」
 唇が震えたのは、枝が震えたのは、どうしてだろう。
「わたし、君に助けられたのに、君の苦しさには気づかなかった」
 額をヴェールに押し付けて、エルダは言葉を絞り出した。





「――ごめんなさい」





 真実、樹との別れを惜しんでいるのが窺える、後悔に満ちた声。
 ざわり、とヴェールの梢が大きく揺れたのは、そのときだった。
 ――光が降ってくる。
 遥か頭上の梢から降り注ぐ光の粒子は、幹に次々と降り立つと、ぱぁっと一際強い光を放ってすぐに消える。
「……疵が……!」
 樹液を取るために開けられた無数の穴が、光に触れるたびに瞬時に元通りになっていく。枯れかけて生気を失くしていた幹の表面も、生気を取り戻していく。
 わずか数分の出来事。だがそのあいだに、ヴェールはすっかり生気を取り戻していた。

――あなたたちのためじゃないですよ。

 どこからか降ってきた声。そのどこかつっけんどんにも思える声の主を、こずえは知っている。

――エルダは、樹液を取るときいつも僕に感謝してくれていたんです。根元の傍に花が沢山植えてあるのも、彼女の発案です。僕が寂しくないように、って。

 こっそりと横を見ると、エルダは不思議そうな顔をしている。どうやら、彼女にはこの声が届いていないらしい。

――今は論外として、昔だって、僕をまるで人間と対等な存在であるかのように扱ってくれた人は、エルダが初めてだったから。最近来なくなったから、てっきり引っ越したのかと思っていたんだけど。……そうか、恋人ができたんだね。だからあまり顔を見なかったのか……。

 くぐもった声で呟かれた言葉がなんだったのか、こずえにはわからなかった。けれど、妖精は再びその声に明るさを取り戻すと、おどけるように言った。

――あのこが悲しむのは、見たくないな。あのこがまだ僕を覚えていてくれるのなら、あのこの道を見守るためだけにでも、もうすこし生きてみようかな。

「エルダさんと、話していったらどうですか」
 思わず零れた主張には、苦笑するかのような響きが返ってくる。

――……あのこにはもう愛する人がいる。僕は所詮樹だから、今更会ったところで何にもならないよ。

 そこまでいわれると、こずえとしても反駁できない。
 むぐぅと口を噤んだこずえに、けれど意外なところから声がかかった。
「――君なの?」
 半信半疑といった風情で、エルダはヴェールを見上げた。

――……。

「君だったら、わたしにも声を聞かせてちょうだい。もう少しでわたしは、この街を出て行かなきゃならないから、――話せるのならまた君と話しておきたいの」
 暫しの沈黙の後、守護妖精は、ヴェールの樹から落下するようにして姿を現した。











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