第3章 久遠の緑樹



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「ところで、そこのあなた。ええ、黒髪のあなたです」
「はい?」
 突然注目を浴びたこずえは、びくっと体を震わせた。
「な、なんでしょう」
「この薬を」
「え?」
「いいから。早く飲みなさい。はい、どうぞ」
 エルダに水と錠剤をやや強引に手渡されたこずえは、当惑しながらもその薬を呑みこんだ。曲がりなりにも腕利きの薬剤師というからには滅多な物は渡さないだろうと思ったし、なによりエルダの口調には相手に有無を言わせない雰囲気があったのだ。
「あれ……」
 すうっと、胸の痞えが取れたような気分がする。さきほどよりずっと呼吸もしやすい。
 こずえの視線を受けて、エルダも肯く。
「――瘴気を浄化する薬です」
 エリオット、セルディ、フェルティがはっとした顔になる。ヒルダはちょっと顔を顰めただけだ。
「どんな事情かはお聞きしませんが、その様子ですと、彼女は最近肉体の許容量を超える瘴気に曝される機会があったようですね。眩暈や息苦しさ、吐き気などの症状がありませんでしたか?」
 フィラデルフィア家を出てからというもの、深刻ではないが息苦しさに悩まされていたこずえはこくりと頷きかけたが、またもや馴染みのない単語が説明に含まれていることに気付いた。
「あの、瘴気って、なんのことですか?」
 おそるおそる訊ねたが、それほど突拍子の無い質問ではなかったらしく、若き薬剤師は丁寧に説明をしてくれた。
「瘴気とは、ダークネスの体内に含まれている黒紫色の気体のことです。ライトネスの体内にも瘴気に似たものが含まれていますが、こちらが人体に悪影響を及ぼすことは稀です。瘴気を人が鼻なり口なり傷口なりから吸収してしまうと、人体に悪影響が生じます。軽微な場合は先ほど申し上げたような眩暈などの症状で済みますが、最悪の場合は、幻覚、妄想に囚われ、狂気の内に死に至る場合もあります」
 こずえの顔から血の気が引いたのが分かったのか、エルダが慌てて付け足す。
「大丈夫です。あなたは典型的な軽微な症例です。間違っても幻覚や妄想を生じることは、まして死に至るなんてことはあり得ません。百人以上を診てきた私が保証します」
「……なんで私が、瘴気に侵されているってわかったんですか?」
「いくつか理由はありますが、分かりやすかったのは顔色と爪です」
「顔色?」
「顔色が明らかに悪かった。それがひとつ。ただ、それだけだと体調が悪いとしかわかりませんから。特徴的だったのが爪です。青がかった紫になって、白っぽい斑点が浮かんでいたでしょう。瘴気に侵された場合の典型的な症状です」
 こずえはエルダに近い位置にいた訳でもないのに、話している間に彼女はこずえの異変に気付いたのだと言う。この目敏さは何だろう、とこずえは驚きを持って彼女を見つめた。なるほど、これなら腕利きだというのも納得できる。
「瘴気に感染する主な理由としては、魔物に傷を負わされること、それに魔物が消滅するときに、すぐ近くに居ることです」
 ふんふんと納得しながら聞いていたこずえは、その言葉にヒルダがきつめの眼差しを更にきつくしたので、目を覆った。ヒルダがエルダになにを要求するかが、まざまざと想像できたので。ヒルダがエリオットとエルダの交渉中に口を挟むことができずに鬱憤を溜めていたことは、当人以外は早い段階で察していた。
「ならば、あたくしたちもその薬を頂きたいのですけれど」
 しかし、言葉に凄みを利かせたヒルダを、エルダは「必要ありません」の一言で退けた。これほどまでにあっさりあしらわれたことが無いらしいヒルダが二の句を継げないでいるうちに、エルダはさらさらと道理を説いた。
「私が他の方々の様子に気を配っていないとでも? 私は薬剤師です。ひとりが瘴気に侵されているようなら、同行されている方々の様子も観て、必要な処置を施します。見る限り、この方以外はまったくの健康体です。顔色もすこぶる良好。よって、薬は必要ありません」
 反駁する隙がどこにも見当たらなかったのか、ヒルダは顔中に悔しそうな表情を浮かべて引き下がる。こずえはエルダを賞賛の眼差しで見詰めた。
 が、はたと思い当たる。
「あれ、ちょっといいですか」
「なんでしょう」
 ヒルダからこちらに向き直ったエルダに、こずえはおそるおそる問いかけた。
「瘴気の許容量が少ないということは、……少しでも瘴気に触れるだけで、また今回みたいに体調を崩してしまうんでしょうか」
 そうだとすると、こずえがこの旅に同行するのははっきりいって足手まといになる。こずえの危惧に、エルダはちょっと考え込んだ。
「……瘴気の許容量が少ないのには、二つの理由が考えられます。ひとつは、先天的な理由でどうしても瘴気を受け付けない場合。もうひとつは、瘴気の少ない地域で生まれ育ったため、瘴気の存在自体に肉体が慣れていない場合」
 エルダの説明を受けて、エリオットが話し出した。
「彼女は、魔物が少ない地域で生まれ育ち、魔物に接する機会もごく少なかったから、おそらく瘴気に触れるの自体が初めてだ」
「ああ、それで。なら、ランセ王国で過ごすうちに許容量も上がると思います。ランセ王国は土地柄魔物が多いので、大気の中にも瘴気が微量ながら含まれているんです。少しずつ慣れていくと思いますよ」
 言いつつ、懐から小瓶を取り出す。先ほどこずえに渡したのと同じ錠剤が、小瓶の中で転がった。
「その薬は即効性でよく知られている物ですが、いくつか差し上げるので、これから五日間毎朝服用して下さい。それと、念の為に今日一日はたっぷり寝て休息を取ること。それほど参っているようでもありませんし、それで十分でしょう」
「では、この薬の分の謝礼を」
(う、眠くなって来た)
 セルディとエルダが話している間に、こずえが眠気を追い払おうと瞬きを繰返すと、エルダが気づいて奥にある部屋を指した。
「薬の副作用ですね。寝台をお貸しします。残りの方も、こちらに泊っていかれては?」
「ああ、そうさせていただこう」
 そうして案内してもらったベッドに倒れこむなり、こずえの意識は途絶えた。





 ぱちぱち、と暖炉で火が爆ぜる音が聞こえる。
 ぱちり、とこずえが目を開けると、部屋の中はほぼ完全に闇に包まれていた。どうもかなり長い間寝ていたようだ。
 一応起きたことを報告すべきかと寝台から身を起こした時、頭の近くから声がかかった。
「――今は深夜だ。他は寝てる」
 暖炉の傍の椅子に深く座った状態のエリオットと目が合う。暖炉のおかげで、彼の周囲だけ明るい。
「ごめんね、看病してくれてたんだよね?」
「エルダが、ないとは思うが念の為、体調が急変したら教えてくれというからな。だが、看病って程じゃないし、兄上やフェルティアーナも来ていたぞ。ふたりが寝たから此処にいるだけだ」
 こずえを責めようとはしない口調に、返ってこずえが身を縮こまらせると、エリオットは素っ気ないと錯覚しそうなほど、熱のない声を出した。
「気にするな、フェルティアーナもヒルダ様もあれはあれで疲労が溜まっていたんだ。ぐっすり寝入っているのが何よりの証拠だ。コズエが体調を崩さなくても、休憩を取らなければならない時期だった」
「……エリオットの体調は?」
「瘴気のことか?」
 うん、と頷くと、彼はわずかに嘆息した。
「俺は瘴気の許容量が高いから、あれくらいどうってことない」
「そう、なの?」
「ああ」
 沈黙が落ちる。今に限ったことではなく、エリオットと話している時はだいたい双方沈黙している時間の方が長い。ふたりとも、口数の多いほうではないのだ。
 こずえもなんとなく黙ったままだった。話題を見つけようとして、でも見つからないというよりは、沈黙が心地よかったのだ。
 今迄の付き合いで分かっている。エリオットは多くを喋らない。言い方もきつめでぶっきらぼうだし、愛想もない。正直、最初は少し怖かった。
 でも、一見冷たい言葉の裏には、彼なりの心遣いが含まれているとこずえは気づいたから。
「――悪かった」
 突然の謝罪に思考を断ち切られ、こずえはきょとんとする。
「え」
「エルダが指摘するまで、コズエが体調を崩してるなんて、考えもしなかった。慣れない土地に来て初めてあんなものを目にして……平静でいられるわけないよな。配慮が足りなかった。ごめん」
「まぁ、私も瘴気にやられたなんて思ってなかったし。精々ちょっと疲れてるのかなって思った程度だったよ?」
「……そうだよな、そこも知識がなきゃ分からないよな……」
 こずえの言葉にも拘らず、エリオットはずぶずぶと反省の海に沈んでいく。ぶつぶつと口に出しては、がくりと項垂れることの繰り返しである。
 なにやら纏う雰囲気が暗いエリオットに、こずえはそっと声をかける。
「いやあの、本当に、大丈夫だって」
 きっと上げられた蒼。その光の強さに、息を呑む。
「――簡単に言うな」
 その言葉の余りの鋭さに、こずえは知らず言葉を飲み込んだ。
「今回はまだよかった。だが、もしこれが、時間が経つにつれて体を蝕む毒や呪いだったとしたら? この世界にしかない脅威について、コズエは知識がない。誰かが気をつけていなきゃ、誰も気づかないまま無理して倒れて――そのまま死に至るという場合だって考えられるんだぞ!」
 怒りに満ちた、けれど真摯な声をきいて、こずえは一瞬表情を失くした。――きづかなかった。
(ああ、そうか、)
――ここは別の世界なのだ。そして、自分は今ここで「生きている」のだ。
 忘れかけていた――いや、たぶん。
「信じたくなかったんだなぁ……」
 実感のこもった響きに、エリオットが戸惑ったような表情を浮かべる。「別の世界に来ちゃったってこと」と続けると、その表情が引き締まる。腕を目の前で交差させて、こずえは眼を閉じた。たとえ光源が暖炉のかすかな光しかないにしても、今の表情を見られたくなかった。
「なんかさ、この世界に来てしばらく経ったけど……テレビを見てるとか本を読んでるとか、そんな感じで、現実味がなかったんだ。ローナのことだって、・・・・・・わたしがいた世界じゃ、現実には絶対に起こりえないようなことが、次々と目の前で起きている。正直ちょっと、消化不良でさ。――これは夢で、目が覚めたら夏休みの始まりで、冷房の聞いた部屋で寝てるんじゃないかって、そんなことも思ってた」
 片仮名語はわからずとも、こずえが何を言いたいのかは感じ取ったらしく、エリオットが僅かに身じろぎした気配がした。
(うん、つまりはこういうことだ)
――自分は、まだこの世界を、距離を置いて眺めているのだ。
「夢の中だったら、さ。怪我したって多少体調崩したって、目が覚めれば元通りだよね。たぶん、わたしはその意識が抜けきっていないんだと思う」
「……」
「どんな怪我をしても、どんな目に遭っても、この世界に骨を埋めるようなことにだけはならないって、頭のどこかで考えてるんだ」
 ヒルダに心から憤慨する気になれない一因は、きっとこれだ。永久にこの世界にいるなんてことはありえないと思っているから、ずっと彼女の暴言につきあわなければならないわけではないと思っているから、一歩引いた態度を保てる。
 けれど、他の人には、紛れもなくこの世界に生きている彼には、自分の言葉はなんて腹立たしく思えることだろう。何が起きても所詮それはこずえにとって他人事でしかないのだと、言っているようなものだから。
「はは、ごめん、危機感が足りないよね」
 自嘲するような響き。どうしても蒼の双眸と目をあわせられなくて、頭から毛布を被ったとき、静かな、けれど意外な言葉が耳朶を打った。
「――コズエは、強いな」
「え?」
「初めて、コズエが俺と歳が近いんだって納得できた」
「……どういう意味?」
「コズエは、ヒルダ様に対する態度といい、この旅の間の態度といい、すごく大人びているように思えたから。いや、実際、大人なんだろうけど。――正直言うと、少し安心した」
「大人びてるって、エリオットにだけは言われたくないんだけどな」
 彼こそ、十七歳だなんてにわかには信じがたいほどの知性と落ち着きを有している。
 そんなことを考えつつも、こずえは、どこか救われたような気持ちになっていた。身勝手な言い分に呆れられて軽蔑されたら、立ち直れないような気がしていたから。
――それは、相手がエリオットだからなのか、こずえには判断がつかないのだけれど。
「さっきのことについては、謝らない。ああ言わなきゃ、コズエは気をつけないだろ。だが、話を聞く限りその考え方は、――当然の自己防衛じゃないのか。心を壊さないための」
「――そう、思う?」
 僅かに震えた声に、彼は気づいただろうか。
「ああ。だいたい、今まで取り乱しているのも見たことがないし、これでまったくの平静でいられたら、返って不気味だぞ」
「……すごい」
「は?」
「エリオットって軽口も叩けるんだね!」
「あのな」
 心底あきれ返ったような、けれどこずえが怖れていたような軽蔑の色はない彼の表情に、心の底から安堵するのを感じた。
 気がつくと、自然と体が動いていた。
「……おいっ!」
「大丈夫だよ、ちょっとだけ」
 エリオットが制止するのにも構わず、こずえは注意深く絨毯に素足を下ろした。そうしてエリオットの目の前に来ると、屈んで座っている彼と視線を合わせた。
「これからは、体調がおかしいと思ったら、すぐに言うから」
「ああ、そうしてくれ」
 なんだそういうことか、との表情を浮かべた彼は、次の瞬間、息を詰めた。
(ああ、やっぱり、大きいんだな)
 少年の大きいてのひらに、自分の小さなそれを重ねて、こずえは蒼の瞳を覗き込んだ。
「それとね、確かにわたし、この世界に慣れきっていないし、正直今までの常識からかけ離れたものがいっぱい出てきて、きついこともあるけど、」
 でも、この世界で出遭ったものは、それだけじゃない。
「この世界に来て最初に会ったのが、エリオットでよかった」
 慣れない世界で、本物の善意に出会えた幸運。落ち込んでいる気持ちを鮮やかに掬い上げてくれる人に出会えたこと。
――そのすべてが、こずえに、また前を向く力を与えてくれる。
「ありがとう」
 ありったけの思いを五文字に籠めて、こずえは微笑む。
「……?」
 しばらく反応がないので、エリオットに視線を移す。
「エリオット?」
 虚を突かれたような、無防備な顔。彼のそんな顔を見るのは初めてだ。
「おーい」
「あ、ああ」
 ぎくしゃく、との音が聞こえそうなほどのぎこちない動きで顔を上げたエリオットは、すこし迷ったあと――戻しかけていたこずえの手をそっと握った。
「俺のほうこそ、ありがとう」
 囁くような小さな声は、けれど確かにこずえの耳に届いた。
(あ)
 やわらかく下がった眦。きゅっと上がった口角。無防備な、あどけないといってもいいかのような笑顔。
 こずえは、初めて見たエリオットの笑顔に目が釘付けになった。握られているというよりは触れられている手に、熱が集まっていく気がする。
「え、と、……おやすみ!」
 結局こずえの口から滑り出たのは、この状況から逃げ出すための言葉だった。手は呆気なく離れ、それをどこか寂しいと思っている自分に気づき、僅かに赤面する。
 脱兎もかくやという勢いで寝台に飛び乗り、もぞもぞと毛布の中に潜り込んだこずえに、ややあって降ってきた言葉。
「おやすみ」

 その声音も、穏やかでやさしいと、そんな取るに足らないことを考えた。










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