第3章 久遠の緑樹



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 まだ窓の外は暗いが、少年はいつもと寸分違わぬ時刻に起床した。むくりと上体を起こす動作に伴い、さらりと背に流れ落ちる雪の髪は、少女のそれと見紛うほどに眩い。
 だが、少年は、癖の無い銀髪を鬱陶しがるかのように軽く頭を振ると、音も立てずに寝台から立ち上がった。背後では彼の兄がまだ寝息を立てている。
 極力物音を立てないようにして、彼は部屋の隅に向かおうとした。
 視界の端に小瓶が映り、ああ思いだしたというかのように、彼はそれを手に取る。
 そして、小瓶の中に残された錠剤の数を見て、少年は、はっきりと顔を顰めたのだった。





 フィラデルフィア家よりやや南東に向かった街、ルトロヴァイユの手前で、一行はある宿屋に泊って朝食中だった。
 テーブルに並んだ朝食はほくほくと湯気を立てていて、こずえはシチューにちぎったパンを浸しては口に運んでいた。この国では固めのパンをシチューに浸して食べる料理が広く普及しているらしく、初めて見たときにパンにそのまま齧り付こうとして、慌てたフェルティに止められた。
 食器はありがたいことにナイフとフォークとスプーンで、これにこずえは結構助けられていたりする。本音を言えば箸を使って白米が食べたいのだが、それは贅沢というものだろう。
 取り敢えず、音を立てないように細心の注意を払いつつ食事を進めていたこずえは、耳を打った涼やかな声に、パンを口に運ぶ手を止めた。
「今日はこれから、この近くのルトロヴァイユという街に向かおうと思います」
「なぜか、お聞きしてもよろしいかしら」
 すかさず入った猜疑の色の濃い声音に、エリオットは気を害した素振りも見せずにつらつらと述べた。
「私は、常よりカシェという薬を常備薬としております。この薬が切れかけているので補充をしたいのです。彼の街のエルダ・リーンという薬剤師は腕も確かだと聞くので、彼女を訊ねにいこうと思います」
「カシェ?」
 耳慣れぬ響きに、思わず反復してしまってからしまったと思ったが、見れば、フェルティもヒルダも、そんな薬の名前は知らないようである。フェルティは素直にきょとんとしているし、普段あれほど目立ちたがるヒルダもおとなしくしている。
「この薬だ。毎朝飲まないと体調が保てないから、早めに補充しておかないと」
 エリオットが振った小瓶の中では、緑柱石と見紛うばかりの鮮やかな錠剤がからからと音を立てた。
(意外だ)
 こずえが見る限り、エリオットは健康な少年である。身のこなしを見ても、どう考えたって運動不足ではないし、また、どこかが悪いようにも見えない。内臓でも悪いのだろうか。
 こずえの視線の意味を正確に理解したらしく、はぁと溜息をつかれた。
「これを飲んでいるから人並みの生活が送れるんだ」
「そう、なの?」
 こくりと肯いた弟の隣で、銀色の兄もちょっと困ったような顔になる。
「私も簡易なものなら生成できるのですが、複雑になってくるとお手上げなんです。妙な薬を作りださないためにも、専門家である薬剤師の力を借りた方が早い」
 謙遜していらっしゃるが、セルディナート兄上は薬の類に相当お詳しいんだ、体調を崩した時には頼むといい、と言われて、こずえはますます目を見張る。今朝は、まったくもって驚きの連続である。
「趣味だと言えばそれまでなんだけどね。多少の知識はもっていると自負しているよ。軽度の創傷や疾病になら、効果のある薬を生成できる」
「では、気分が悪い時に、ぜひお願いいたしますわ」
「ええ、フェルティアーナ様のお言葉とあれば、いつでもお役に立ちましょう」
 微笑み合う二人は、まさに恋人同士の理想形であり、こずえはちょっとやさぐれてスープをスプーンでかき混ぜてみた。
(それにしても、)
 エリオットはカシェという薬を服用していなければ体調が保てず、セルディは薬に対する知識が豊富だという。
(これは、偶然?)
 浮かんだ疑問に答えてくれる者はいる筈が無く。
 こずえは珍しく眉間に皺を寄せると、ちぎったパンごとスープを口に運んだのだった。





 宿から馬車で一刻余りの時を過ごし、一行はエルダの家の前に到着した。街の外れと聞いているし、周りにそれらしい家は見つからなかったので、恐らく間違いはない。その推測は、表札の「エルダ・リーン」の表示を見て確信となった。
 屋敷を見慣れていたせいか、エルダの家はだいぶ小さく見えるが、それは多分気のせいではない。その証拠に、扉がこずえはともかく男性陣は屈まねば通り抜けられないような不親切設計である。頭をぶつけて呻くエリオットを想像して、こずえは小さく微笑んだ。余談だがセルディが同じことをしている様はまったく思い浮かばない。
 エリオットが(やけに低い扉を警戒しながら)、蔦が側面を覆い尽くすかのようにびっしりと伝っているその家に近づいて、呼び鈴を何回か鳴らすと、ようやく扉がぎぃっと音を立てて開き、小柄な人影が顔を出した。
「ふあぁ、エリカの鉢植えは家の前に置いといてくれればいいですよー」
 よたよたとした足取りで出てきたのは、小鹿色の髪を三つ編みにして、榛色の瞳に銀縁の眼鏡をかけた、小柄な女性だった。この女性がエルダだろう。この世界ではこどもの背丈に分類されてしまうこずえと、ほぼ背が変わらない。
 三つ編みは解れ服には皺がつき、明らかについさっきまでこの恰好で寝ていたことが分かる彼女が、困惑の表情で自分を見るエリオットは馴染みの花屋ではないことに気づくまで、数十秒を要した。
 やっと自分の目の前にいるのが客で、しかも相当な美形であることに気づいたらしい彼女は、目をまん丸にして硬直し――扉を半開きにしたまま家の中に駆け込んだ。
 ばさり、ばんっ、といった着替えているらしき物音に混じって、「ああもう、なんでこんな日に!」という呻きが聞こえてくる。
 ややあって顔を出した彼女の髪はしっかりと結えてあり、服もぱりっと糊の利いた、皺ひとつないものに変わっていた。
 だが、目が冴えて一行を家の中に招き入れて尚、エルダの印象はおよそ腕利きの薬剤師という評判からは程遠かった。
「あのぅ……どういったご用件でしょうか」
 おどおどとした様子は、華奢な体つきとあいまって警戒心の強い兎を思わせる。少しでも近寄ろうとすればさっと逃げてしまう。こずえは、果たしてこの人に精製の難易度が高いと言われるカシェの薬を作れるのか大いに危ぶんだ。
「カシェの薬を作ってほしいのだが」
 だが、依頼を効いた途端、エルダの背がしゃんと張り、榛色の瞳が煌いた。別人のようにはきはきとした口調になる。
「ではまず、カシェの薬の効用はご存知ですか? あれは、使い方を誤れば非常に良くない作用をもたらします。興味本位からならお勧めいたしません」
「いいや、俺はこれを常備薬として用いている。証拠はこれだ」
 さきほどこずえが目にした小瓶を差し出され、エルダの目がすぅっと細まった。
「なるほど。念のため、簡単な検査をさせていただいても?」
「どんな内容だ?」
「この水晶玉を。ええ、そうです、軽く持って」
 どこからかエルダが差し出した水晶玉に、エリオットが手を触れるか触れないかという時、水晶玉がぱあっと明るく輝いた。
「わかりました。……確かに、あなたにはカシェの薬が必要なようですね」
 ぼんやりとした様子が仮初の姿であったかのようにてきぱきと段取りをしていったエルダはしかし、そこで初めて困ったような顔になる。
「けど、――ごめんなさい。今は、カシェの薬を作れないんです」
「何か、怪我でも?」
「いいえ、材料が足りないんです」
 エルダは仕事部屋と思しき奥の部屋でしばらくがさごそやっていたかと思うと、両手に色とりどりの物質が入った瓶を抱えて戻ってきた。一個一個瓶を丁寧に机の上に置くと、指差しながら説明を加えて行く。
「ご存じのとおり、カシェの薬は強い効果をもたらす分、希少な材料を必要とします。特に、薬の大本となる材料が最も貴重なもので、五百年以上を生きたヴェールの樹の樹液なんです。ラクサの花びらを乾かしたもの、ファラーシャの翅、ロディアの朝露はこちらに用意できているのですが、――このヴェールの樹液が不足しているんです」
「この街は、ヴェールの樹液の交易で名を高めた筈だが」
 問い詰めるというよりは、疑問を口にしているといった風情のエリオットに、エルダは静かに窓の外を指差した。
「窓から見えるヴェールの大樹。あの木はどんなふうに見えますか」
 エリオットがつかつかと歩み寄っていった窓を、こずえも下から覗きこむ。
 玩具箱のように鮮やかな色彩で色分けされた煉瓦の屋根を覆う様にして、大きな樹が街の中心に植わっていた。背の高い木で、街の外れにあるこの家からでも、天辺が見えない。
「高いね、この樹」
「ええ。わたくし、こんなに大きい樹を初めて見ましたわ」
 だが、枝という枝に葉が見えないからか、なんというか、
「……殺風景だこと」
 ヒルダが遠慮会釈なく正直な感想を述べると、エルダは「それが問題なんです」と続けた。
「ヴェールは、常緑樹なんです。この時期に葉を落としているなど、考えられません」
「原因は?」
「街の者が、地上からわかることは殆ど調べつくしたそうです。ですけど、それでもはっきりとした原因は分からないそうで。ただ、まるでヴェールの樹が生命力を完全に失くしてしまったかのようだと、調査に関わった者が言っていました。一部地表にむき出しになっている根があるのですが、殆ど枯れてしまっていたのだそうです」
「あなたは、それを実際に目にしたのですか?」
 セルディが穏やかに尋ねると、エルダは「いえ」と首を振る。
「私の専門は薬学であって、植物学ではありませんから。……それでも、ヴェールの樹が弱ってしまった原因は、想像に難くないのですけれど」
「原因?」
「樹液の乱獲です」
 言下に訊ねたエリオットに、エルダはほんのわずかに眉を曇らせた。
「ご指摘の通り、このルトロヴァイユの街はヴェールの樹液の交易で栄えてきました。ヴェールの樹液は、高価な薬には欠かせないもの。だからとても高値で取引されているんです」
 でも。続けた声は微かに震えていた。
「最初の内は良かったんです。何年前でしょうか、ヴェールの樹液が高く売れることが分かって、この町の人はとても喜んだんです。ですけど……いえ、それより今はカシェの薬のことですね。どうしましょう、時間はかかりますが遠方の地から樹液をとり寄せますか?」
 小さくかぶりを振ると、エルダは困ったようにエリオットを見た。少年もしばしの間考え込んだが、
「事情は分かった。とにかく、そのヴェールの樹の状態を見てから決めたい」
 エルダもすんなり頷いた。
「ええ、そうですね。ヴェールの樹が見える方向に進んでいけば、多少迷っても必ず辿り着けると思います。地上からだけでは分からないこともあるでしょうし」
「先程も訊ねようかと思ったのですが、この街には魔力量の高い者はあまり住んでいないのでしょうか」
 セルディが横から口を挟むと、エルダは勢いよく首肯した。
「はい、ですから樹の上の様子を見てきた者がいないのです。梯子や他の道具を使うには樹の高さがありすぎますし……」
「では、我々が上の方の様子も観てきましょう」
「ありがとうございます」
 そうしてとんとん拍子にまとまった話は、次の瞬間に意外な方向へ転がった。










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