振り下ろされる巨大な刃を、こずえは朦朧とした意識で眺めていた。
生温かい液体が、腹部を伝って地面へと滴り落ちていくのを感じる。急速に冷えていく足にはもう少しの力も入らなくて、少女はぺたりと地面に座り込んだ。痛い、という感覚自体が麻痺してしまったようで、特に辛くはない。ただ、思考速度がどんどん鈍くなっていくのが、はっきりと感じ取れた。
(私、死ぬのかな)
不思議と恐怖はない。死という直ぐ眼前に迫った未来が、ひどく薄っぺらいものに感じられた。
それは、余りにも急な出来事で、自分が死ぬのだということを実感できていないから、或いは、長いこと生きていくことに意味や歓びを見出せてこなかったからかもしれなかったが、今となっては、どちらでも少女にとってはたいした意味を成さなかった。
命の灯火が小さくなっていく今、気がかりなのは。
「……エリオット」
もっと一緒にいられるかと思っていたのにね。浮かんだ言葉は音にはならない。その事実に苦笑して、少女はゆっくりと目を閉じた。
私が死んだら、彼はきっと悲しむだろう。誰より優しい人だから。でもきっと、それ以上ではない。それ以上であっては、ならない。
(――)
呼ばれた気がして、ふと、目を開ける。
「うん、」
薄れていく意識を励まして、体の両脇に力なくぶら下がっていた両腕を、ゆっくりと目の前の白銀に向かって広げた。
「ごめんね、それに――」
ありがとう。
青ざめた唇に乗せようとした言葉は、その相手に届く筈も無く。
少女はそれもわかっているのだと言うように力なく微笑し、今度こそ固く眼を閉じる。
少女の意識は、闇の中に沈んでいった。
「さあ、聞かせてよ。まだ名前のない、君だけの物語を」
「う」
小さく呻き声を上げて、少女はタオルケットを抱きかかえたまま寝台の上で寝返りを打った。寝巻きがじっとりと素肌に張り付く感触がひどく不快だったが、それよりも先に脳内に閃くものがあった。のろのろとした動作で布をめくって肌の状態を確かめる。
「……そうだよね、夢だもん」
自分の肌に異常は何一つ見当たらない。健康そのものの色だ。たかが夢に動揺してしまった自分がおかしかったけれど、それでも、目が覚める直前に見た夢は、やけに生々しく現実味のある夢だったのだ。
ひとたび安堵してしまえば、思考はごく現実的な方向に向く。
「……とけい」
寝ぼけ眼のまま枕元においてある目覚まし時計を見やれば、短針が八を指している。寝ているあいだは空調を切ることにしているので、部屋の中にはむっとした空気が篭っていたし、これからどんどん気温も上がっていくだろう。
これ以上惰眠を貪るのは難しいだろうと判断した彼女は、よたよたとした足取りで窓へと向かった。
窓を開けて室内に光をいれ、着替えを済ませると、こずえは軽やかな足取りで階下へと向かった。
「お姉ちゃん」
「あら、こずえ。あなたにしては遅いわね」
「あはは。だって夏休みだもん」
振り返ったかえでの傍にある食卓の上には、伏された茶碗がひとつと、ラップがけされた皿がいくつかある。炊飯器から白米を茶碗に手早く盛り付けながら、こずえは姉に話しかけた。
「お姉ちゃん、夏休みの予定は?」
「読まなきゃいけない本がいくつかあるから、まずはその調達かな。マキャヴェリの君主論とか、ミルトンの失楽園とか。こずえも、聞いたことくらいはあるでしょう」
「あるけど……そんなに読んでどうするの」
「読書レポートにするのと、あと、大学の授業で中身を詳しく掘り下げるからね。読んでおくに越したことはないのよ」
朝食の席でこうやって会話を交わす姉妹は、このやりとりだけで察せられるように仲睦まじい姉妹だったが、ぱっとみてふたりが姉妹であると認識できる人間は、そう多くはなかった。
姉のかえでは、所謂ぱっと人の眼を引く美人だった。小さめの卵形の顔に、やや切れ長の瞳、小さいくちびる。眉を顰めた愁い顔でさえなかなか絵になるので、中学生の頃から異性の引く手数多だったことは未だに当時の同級生のあいだで語り草になっているらしい。
対して今年高校一年生になったこずえは、美少女と呼ばれる部類ではなかった。よくよく見れば似ているパーツもあるのだが、ぱっと見の印象がかなり異なるので、黙っていればふたりが姉妹であることに気づくものはそうはいない。
けれども、くるんとした睫毛に縁取られた目はぱっちりとして印象的だったし、整いすぎていない顔立ちは、美人と賞賛されることはない代わりに、かわいらしいと称されるには十分だった。なにより、ふとしたときに見せる笑顔はとても愛らしく、場合によっては姉のそれよりも魅力的に映るようなものだった。
こずえは、姉が美人であることはよくよく承知していたが、そのことを特にやっかんだりもしなかった。年が離れていたので、姉をよく知る人間に冷やかされたりということがなかったこともあるし、家庭でそういう話題が一切出なかったこともある。なにより、姉がその顔立ちのせいでそれなりに苦労を重ねてきたのを間近で見てきたことが大きいだろう。
そんなわけで良好な姉妹関係を苦もなく実現しているこずえであったが、そのかわりに、自分の顔立ちの美点についてはだいぶ無頓着なところがあった。今だって夏休みなのをいいことに、リップもなにもつけないまったくの素顔で過ごしている。外見に興味がないというよりは、異性にどう見られるかについての関心がない、といったほうが的確かもしれない。
ひとしきり夏休みの大雑把な予定について話を交わしてから、ふとこずえは軽く顔を顰めた。
「どうしたの? 味噌汁に何か入ってた?」
「ううん、違うよ」
静かに首を振ってから、味噌汁を一息に飲み干し、椀を置いた。
「今日、夢を見たんだけど。ちょっとリアルでさ、……怖かった」
「どんな夢?」
問われて、こずえは束の間目を閉じた。紅い色が脳裏を過ぎる。ひどく悲痛な声が聞こえた気がした。
けれどもそれは一瞬のことで、追おうとする前に、その夢の内容は頭から消え去ってしまった。しばらく思い出そうとして叶わず、諦めて話し出したのは時計の針が九時半を指したころだった。
「一つ目はよく覚えてない。死ぬのかなって、そう思ったのだけ、はっきり覚えてるけど。でも、二つ目は、よく思い出せる」
「物騒だなぁ。二つ目のは?」
問われたこずえは一瞬だけ唇を噛んだ。柔らかな桜色の唇が一瞬、そこに流れる血を全て抜きさったかのように白くなる。少しの間をおいて、彼女は話し始めた。
「……笑われちゃうかもしれないんだけど。追われてたの。犬みたいな、黒くて、大きな獣に。必死で走って逃げてるのに、追いつかれちゃって。飛びかかられて脇腹にどすん、って、噛み付かれたの」
「うーん、ストレスが溜まっていたのかな。立て続けにそんな夢ばかりを見るってことは」
沈黙してしまったこずえを暫く見守ってから、かえでは、励ますかのように妹の肩を二度三度叩いた。
「ねぇ、今日一緒に図書館に行きましょうよ」
「ほんと!?」
「本当よ。だってほら、外はもうすっかり夏だもの。私も課題の本を借りておきたいし」
釣られて、こずえは窓の外の夏を振り仰いだ。
眩しすぎて目に痛いほど、きらきらとした夏の太陽。雨のように降りそそぐ蝉の声が、どこまでも高く透きとおる空に吸い込まれていく。
夏が来たのだ。
「それ」にであったのは、それからすぐのことだった。
図書館で姉と待ち合わせる約束をしていたこずえは、正午少し過ぎに家を出た。猛暑の呼び名に相応しく、ショートパンツからむき出しの肌が日差しにちりちりと焦がされるような、暑い日だった。
「やっぱひと少ないなぁ、当然だけど」
影の多い道を選ぼうと思ったけれど、どの道にも殆ど影がない。そう考えつつ、図書館のある大通りにでる住宅街の中の道を、歩いているときだった。
こずえの目の前に、ふわりと、何かが降り立つ。それに目をやったこずえは、目を零れ落ちそうなほど大きく見開いた。
「なんで? なんでこんなところに、こんな、」
「それ」は、夢で見たような黒い大きな獣だった。夢で見たときは犬のようだと思ったが、こうして間近に向き合ってみると、半開きになった口から覗く鋭く尖った牙は、むしろ狼や虎といったもっと獰猛な獣を思わせた。
その黒い毛並みの獣の双眸は、まっすぐにこずえに向けられていた。
「……」
獣から目を逸らさないまま、こずえはじりじりと後ずさる。しばらくこずえの様子を観察していた獣が、こずえが動くにつれ、距離をまた詰めていくのに気づいて、こずえはパニックを起こしかけた。
ふと、あと少しで大通りに続く曲がり角に出ることに気づく。真夏の昼間だから人通りは少ないけれど、少なくとも誰かに助けを求められるだろう。
そう考えつつ、ゆっくりと足を動かそうとしたこずえの視界の隅に映ったのは、――獣が、こずえにむかって跳躍して来る姿。
夏の日差しに照らされる、閑静な住宅街。日差しを遮るためにかけられたカーテンが家々の窓ではためく。誰もこの異質な状況に気づいていない。
日差しを浴びて光った白い牙だけが、いつもとかわらぬ日常の中から、鮮やかに浮かび上がる。
こずえは咄嗟に後ろに避けようとしたが、軽い衝撃にあって獣の前に押し出される。煌く牙。こずえは目を閉じることもできないまま、目前に迫った光景を、信じられない思いで眺めていた。
「きゃあっ」
脇腹にどすんという感触。視線を下げてみれば、牙がこずえの体に食い込んでいる。痛みはないし、血も流れていないことを不可解に思ったこずえが、おそるおそる牙が刺さっている辺りに手を伸ばすと、
どろり、と獣の輪郭が溶けだした。まるで陽炎であるかのように、獣だったものは毛先から黒い液体になってこずえの体をぐるぐると取り巻いた。それとほぼ同時に、獣だったものの牙が食い込んでいたこずえの体の一部分が、消失していく。
「――!」
驚愕と拒絶の表情を張り付けて、こずえは必死に獣を振りはらおうとした。声が上手く出ないと思ったら、咽喉の辺りにまで黒い液体が張り付いている。
だが、たかが少女の力が獣の力に勝るわけもなく、液体と化した獣は、こずえの体を隙なく取り巻いていき、やがて。
「!」
声も出せないまま、こずえはその場から消失した。
消える直前に視界の隅に映った泣きそうな瞳と、白い色が、やけに鮮明な残像となってこずえの記憶に焼きついた。
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