「……お姉ちゃん」
姉は普段家にいるときよりもずっと華やかな格好をしていた。化粧ひとつとっても、睫毛はマスカラでくるりと長く、ぱっちりとした目はアイライナーできつい印象にならない程度に強調され、アイシャドウが日の光できらきらと煌いている。濃すぎないチークの色は薄紅色で、ぷっくりとしたくちびるはグロスで透明感が増していた。
私は姉の姿を見て確信した。いま、姉の隣にいるひとは、姉の恋人だろう。隣の恋人に目を移そうとした矢先、姉が私に向かって言った。
「紹介するわ、このひと、紫藤良久さん。私の、恋人なの」
煌く紅を引いた姉のくちびるがにこり、と笑みのかたちを作る。
「こんにちは、僕は桐島俊介です。千聡さんの、クラスメイトです」
「あら、そうなの。千聡がお世話になっています」
「いえ、むしろお世話になっているのは僕の方なんですが」
ちゃっかりと会話に参加している桐島くんの声も、姉の声も私の耳には入らない。私はただ呆然と、目の前に立つそのひとを見上げていた。
「初めまして、ちさとちゃん。お姉さんから、話は聞いています。紫藤といいます」
にこやかな笑顔と共に差し出された手にも反応せず、茫然としたままの私に、姉がからかうような声をかける。
「千聡、突っ立ってどうしたの。紫藤さんに見惚れちゃった? でも駄目よ、このひとは私の恋人なんだから。前にも言ったでしょ」
「もしかして、怖がらせちゃったかな。ごめんね」
二人の声は私の耳には入らない。他のどんな情報も視界の中に入らない。ただ、紫藤さんの笑みの形に歪んだ顔の中に嵌った瞳が、どろどろに濁って渦を巻き、滴り落ちていくかのように私には視えた。
(なんで、おねえちゃん、なんで――こんなひと、と)
「佐藤?」
桐島くんの声に返事を返す余裕もない。食道をねっとりとせり上がっていく不快感は、次第に私の体の隅々を浸食していく。
「――ぁ」
きもちわるい。不快感を強く意識した瞬間、私は膝から崩折れていた。
「千聡!?」
「ちさとちゃん!?」
紫藤さんが私に触れようとする。私はその手を失礼にならないように注意しながらよけようとしたが、それより早く、桐島くんが紫藤さんの手をやんわりとおしとどめた。
「すいません、千聡さん、今日ずっと顔色悪くて。もしかしたら、とは思っていたんですけど――大丈夫? 立てる?」
飽くまで丁寧に紫藤さんに説明した桐島くんは、私の顔を遠慮がちに覗き込んだ。
「ううん、ごめ、んね。ちょっと、歩けない」
顔を上げないまま、僅かに桐島くんのほうに身を寄せる。背中にやわらかい熱が触れるのを感じる。先ほどまであれほど彼に冷たい怒りを感じていたというのに、不思議とその感触は不快ではなかったので、ここは彼に任せてこの場を抜け出すことにした。
桐島くんは私の背中を擦りながら、姉に顔だけ向けた。
「千晶さん、俺、千聡さんを送っていってもいいですか? ちゃんと送っていきますから、心配いりませんよ」
「それじゃあ、お願いしていい?」
私は目を見開いて、お姉ちゃんの顔を凝視した。
「ちさと、帰ったらゆっくり休んでね」
姉は、私に軽く手を振ると、するりと紫藤さんの腕に自分のそれを絡めて、私に背を向けた。
私はその背を、ずっとずっと、見つめていた。
「ありがとう、気を回してくれて」
姉たちが視界から消えてから、私はまず、桐島くんから身を離してお礼を言った。無遠慮な詮索に腹が立ったのは事実だが、彼がいなければあの場を上手く抜け出せなかったであろうことも、また事実である。
「いいって、これくらい。それより、ごめんな」
「最近謝ってばっかりだね、桐島くん」
「そうだ、な」
苦笑まじりに肯定した彼は、そのまま真面目な顔になった。
「今日は早く帰って休めよ。明日も学校あるんだから」
「……もう、聞きだす気はないんだね」
先ほどまでのわたしの様子は、明らかに異様だった。それに敢えて触れないことを指摘すると、彼は仕方がないだろ、といって視線を逸らした。
「目の前であんなに辛そうにされたら、もう突っ込めないって」
「うん。でも、今は、大丈夫」
静かに、けれど力を籠めてそう断定すると、彼は、良かった、と微笑んで、それから、ひとつだけ言っていいか、と訊ねてきた。
私がこくりと頷くと、彼は、大したことじゃないんだけど、と前置きしてから、話し始める。
「さっきのって、佐藤の姉さんなんだろ?」
「うん、そう」
「……実の妹が目に見えて具合悪くしてるのに、いくらなんでも冷淡すぎやしないか? 普通、もう少し様子見てもよさそうなもんだろ」
私の具合が悪くなってから、姉が私にかけた言葉は、普段よりもずっと少なかった。普段の彼女なら私をあんなに簡単に初対面の相手に任せたりしない。
「お姉ちゃん、紫藤さんのこと、大好きみたいだからね」
桐島くんは私が姉を庇っていると思ったのか、慌てたように言葉を付け足した。
「ああ、佐藤の姉さんを悪く言うつもりはないんだ。ただ」
そこで一旦言葉を切った桐島くんは、私を真っ直ぐ見て、口を開いた。
「たださ、紫藤さんを好きな余り、仲の良い妹のことにまで気が回らなくなってるのって、見方を変えれば凄く危うい状態だなって、そう思っただけ」
それから数日後、家に帰った私は、家の中の雰囲気が異様なのに気づいて足を止めた。居間のほうから話し声がするのに気がついて、足音を忍ばせて居間の前にまで行き、壁に耳を張り付けて様子を窺う。
インターホンを鳴らさずに、鍵を開けて家に入ったからか、私が帰ってきたのに、まだ誰も気づいていないらしかった。神経を集中しなくても、容易に居間での会話を聞き取ることができる。土曜日だということもあり、私以外の家族はもう揃っているようだった。
両親は、余りにもたびたび姉を外泊させる紫藤さんに対して、不信感を抱いているらしかった。おまえはまだ大学生なんだから、付き合うにしたって程度をわきまえなさい。いくらなんでも度が過ぎる。そういった言葉の断片が、壁を通して私の耳にも入ってくる。
両親の言葉に対して、姉は一見従うかのような素振りを見せていた。殊勝な態度ではい、はい、といちいち両親の言葉に相槌を返している。
そんな姉の態度に満足したのか、両親が話を切り上げる。私は素早く壁から離れて、居間の扉を開けた。
「ただいま」
「あれ、千聡、帰ってたの?」
驚きと焦りが半々、といった表情を浮かべる母に、私は出来うる限り自然な笑みを浮かべる。
「うん、今帰ってきたとこ。おやつある?」
表面上は和やかな会話を続ける私と母の横を、姉が通りすぎる。
その表情が今までになく冷え切っているのに気づいて、私はおやつを食べ終えると直ぐに、姉の部屋へと向かった。
「お姉ちゃん、どうしたの?」
「――くだらないことを、いわれたのよ。それだけ」
「紫藤さんのこと?」
わかっていて、敢えて訊いた私に、姉は疲れたような笑みを浮かべて、そうよ、とだけ言った。
「紫藤さんに会ったこともないくせに、あのひとのこと、何にも知らないくせに。勝手なこと、言わないでほしい」
第三者からみれば、姉の言い分にも一理ある。けれど、このときの私は、何よりも、自分に言い聞かせるかのような姉の口調に、言いようのない不安を覚えて、気づけば考えるよりも先に口を開いていた。
「あのひとは、やめたほうがいいよ」
「ちさとまで、そんなこというの」
冷え切った声音にぎくりとしたときにはもう、遅かった。
「私が誰と付きあおうと、誰と付き合うまいと、私の勝手でしょう」
凍てついた声で言い捨てた彼女は、部屋の隅においてあったバッグを引っつかむと、足早に部屋を出て行ってしまった。
「お姉ちゃん!」
ぱたぱたぱたぱた。足音が遠ざかっていくのを、私は茫然としながら聞いていた。
夜中、夕食も入浴もとっくに済ませていた私は、携帯電話を凝視したまま、ずっと、来ないかもしれない姉からの連絡を待っていた。
携帯電話のバイブ音。私は反射的に携帯電話を開いた。姉からだ。
「もしもーし。ちさとー?」
「おねえ、ちゃん」
螺子が緩んだような、不自然な笑い声。私はふと、彼女がひどく酔っているということに気づいた。
「ちさと、私今日、帰らないから」
「……なに、言ってる、の」
携帯電話を握る自分の手が細かく震えているのを、他人事のように感じていた。私の体の全神経が、携帯電話から吐き出される姉の調子の外れた声に集中していた。
「ねぇちさと、さっきはごめんね? 私も言い過ぎたわ、反省してる」
「なら、」
帰ってきてよ、言いたかった言葉は陶然とした溜息に掻き消される。
「ついさっき、すごくいいことがあったの。なんだかわかる? 彼にね、プロポーズされたの」
「ぁ」
言葉にならないただの音は、相手に届く前に宙に消える。私の沈黙をどう受け取ったのか、調子外れのおんなの声は続いた。
「私、ちさとには怒ってないわ。でもあの親たちは許せないし、今日はもう、あんな家には帰りたくないの。だから彼と一緒にいるわ。彼ならきっと、私を幸せにしてくれる」
「そんな、お姉ちゃん、駄目、」
「ちさと、なにを言ってるの?」
心底不思議そうな姉の声。ああ。私の中のもうひとりの冷静な私が言う。ああ、このひとにはわからないんだ。
それでも、姉を止めるための言葉を再度紡ごうとしたとき、あ、と小さな声がしたかと思うと、携帯電話越しに別の声が流れ込んできた。
「――ああ、ごめんね。これからふたりでホテルに行くんだ」
ぷつっ、という音を残して通話は切れる。脳裏をよぎる、ゆがんだえがお。どろどろに濁った瞳。慌てて電話をかけなおしても、繋がらない。
携帯電話を握り締めたまま、私はただ立ち尽くす。
とどかなく、なって、しまったんだ。
どこかで雷鳴が轟いた。ぽつぽつと控えめな音を響かせていた雨の雫は、いまや叩きつけるようにして大地に降り注ぎ始めていた。私は、一晩中まんじりともせずにその音を聞いていた。沈黙したままの携帯電話を片手に握り締めて。
それから数ヶ月後、私の予感は的中する。
「お姉ちゃん?」
外出先から戻ってきた姉を見て、私は玄関に立ち竦んだ。
姉の顔は、酷い有様になっていた。化粧が涙で滲んでいる。
「嘘よ、こんなこと、嘘」
「お姉ちゃん、とにかく、あがって」
原因はわからないが、衝撃の余り茫然自失となっている姉を、なんとか宥め賺して、部屋に引っ張るようにして連れて行く。
姉を部屋に残したまま台所に行き、確かカモミールには心を落ち着かせる効能があったはずだと思い出し、手早くポットでお茶を抽出した。部屋に戻って姉にお茶を手渡す。やがて、お茶を飲んでいるうちに少し落ち着いたらしい姉が、ぽつりぽつりと話し始めた。
「少し前に、生理が止まっているのに気づいて。病院で検査してもらったら、おめでただって、言われたの。だから彼に、こどもができたって、いったの。そしたら彼、すごく喜んでくれて。今日の昼、会いに行くよって、そう言ったのに」
そういえば、と思う。そういえば、最近、姉は、頻繁に吐き気がするのだと、そう言っていた。あれは悪阻だったのだ。――なんで、気づいてあげられなかったのだろう。
「来なかった。メールも電話も繋がらない。彼のアパートに行ってみたら、管理人さんが、昨日の夜に出て行ったみたいで、連絡が取れないんだって」
私は息を呑む。確か、新生活を準備する都合で、姉は貯金の大半を紫藤さんに預けていたはずだ。そのお金を持った紫藤さんが、姉の妊娠が発覚するなり姿を消した、その事実が意味するところ。
理解したくないのに、わかってしまった。――ダマサレタンダ。
「そのまま外に出て、往来に顔を向けたら、彼の車が止まっているのが見えて。走り寄ろうとしたら、助手席に女のひとが座ってて、彼、いつもと全く同じ笑顔で、私に向かって手を振ったの。それで、隣のひとが、私を見て、笑ったの。そのひとの左手の薬指には、銀色の指輪が嵌ってた……!」
そこまでいうと、堰が切れたらしく、姉は派手に泣き始めた。私とよく似た切れ長の眼から、透明な雫がぽたぽたと落ちて、ラグに染みを作った。
私が何もいえないでいると、姉は、ごめんね、と呟き始めた。それが私に向けられた言葉だと気づくまでに、数分を要した。
「ごめんね、ちさと。ちさとは、言ってくれたのに、止めてくれたのに、私、真面目に聞かなかった! 紫藤さんより誰より、あなたがわたしのこと、いちばん心配してくれていたのに……!」
それからも姉は、壊れたように、ごめんね、を繰り返した。見ていられなくて、返す言葉が見つからなくて、私はその場を静かに立ち去った。
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