「――佐藤? 大丈夫? 隈がひどいけど」
 翌日の帰りに、桐島くんにそう声をかけられた。
「そうだろうね」
 行きがけに鏡を覗き込んで余りの顔色の悪さに唖然としたほどだ。いっそ休もうかとも思ったが、肉体的には健康そのものだったので、そのまま学校に来たのだ。
「……また、あのひとに会ったのか?」
 ううん、と力なく首を振って、私は声を低くした。
「お姉ちゃん、あのひとに騙されてたの」
「なんだって?」
 釣られて真剣な表情になった桐島くんが、辺りを見回して、意を決したかのように言った。
「校舎の裏にいこう。この時間なら、滅多に人は通らないはずだから。だから、そこで話して」
 彼の言葉に頷いて、席を立つ。窓の外では、灰色の雲が、もくもくと膨れ上がってきていた。

 校舎の裏まで来ると、私は、大きな桑の木を背にして立った。桐島くんは、近くの濡れていない地面を選んでそこに座る。
「続き、訊いてもいいか」
「お姉ちゃんが、紫藤さんと婚約してたのは知ってるよね」
 婚約、という言葉の響きは、私の口から出たものであるにも拘らず、どこか余所余所しい、馴染みのない音のように聞こえた。
「ああ」
「……お姉ちゃん、妊娠したの」
 ひゅっ、と、桐島くんが息を呑むのがわかる。私は下を向いたまま続けた。
「紫藤さん、それ聞いて、すごく喜んだんだって。それで、次会う約束をして、そのときは別れたんだって」
「……うん」
「なのに、紫藤さん、約束の時間になっても、会いに来なくて。アパートに行ってみたら、もう出ていったって、そう言われたんだって」
「…………うん」
「往来に出てみたら、紫藤さんの車があって、駆け寄ろうとしたら、助手席に別の女のひとが座ってて、そのひとの左手の薬指に、指輪が嵌ってたんだって」
「……」
 ばしゃり。雨粒がひとつ、地面を強く打ち叩いた。
「守れ、な、かった」
 声が震える私を、桐島くんが心配そうに見ているのがわかったけれど、感情が迸るのを止められなかった。
「わ、私、視えてたのに。紫藤さんがそういうこと平気でする人だって、わかってたのに、お姉ちゃんを止めなかった! 私が、あの日、お姉ちゃんを、あの人のところに行かせたんだ。こんなことになる前に、お姉ちゃんから紫藤さんに会うのを止めていれば、お姉ちゃんは、こんなに傷つかなくて済んだかもしれないのに!」
 ぽたぽた、ぽたぽた。小ぶりだった雨はその勢いを強くしている。桐島くんが、取り敢えず中に入ろうといってきたのを、私は強く拒否をした。雨に濡れて風邪でも引けばいいと思った。
「わたし、最低だ……」
 突如として雨がバケツをひっくり返したかのようなそれに変わる。その雨にか、私の様子にか、驚いた表情を浮かべた桐島くんが私の制服の袖を強く引くのを、腕を思い切り振って払いのける、
「――さわらないで」
 私は声を上げて泣いた。声なんて嗄れてしまえばいいと思った。涙なんて涸れてしまえばいいと思った。けれどどちらも叶わなかった。

 結論から言うと、私は濡れ鼠にはならなかった。話していても埒が明かないと判断した桐島くんが、何処から調達してきたのか、ふたり分の傘を持ってきてくれたからだ。
「……ありがとう」
 大分気持ちが落ち着いてからお礼を言うと、ほっとしたように桐島くんの顔が緩んだ。
「よかった、いきなりあんななったから、傘受け取ってもらえないんじゃないかって、心配してた」
「うん、ごめんね、変なとこ見せちゃって」
 流石ににっこり笑う元気はまだ出なかったので、口角を上げてなんとか笑みの形を作って見せたが、歯医者で部分麻酔を打たれた後のような、すこしぎこちない笑みになってしまった。
「……佐藤は、善人と悪人の区別が、つくんだな」
 うん、と頷くと、桐島くんは、すこし気まずそうな顔をしたまま、話し始めた。途切れ途切れではあったけれど、言葉を慎重に選んでくれているのが、すぐにわかるような、そんな話し方だった。
「お姉さんのことは、残念だったけど、でも、少なくとも鈴城は、佐藤のおかげで、助かったんだろ? そういう能力を持っているからって、全員を助けるのは難しいだろ。だから、手の届くひとだけ、助けられるひとだけ、助けていけばいいんじゃないかな。佐藤が全部を背負い込む義務なんて、どこにもないと思う。……そういう能力は、もっていないから、理解はできないけど。でも、話位は、聞くから」
 私はしばらくの間茫然として桐島くんを凝視していた。それから、またもや謝ろうとしてきた桐島くんの声を遮って、軽やかな笑い声をあげる。心の底からこみ上げてくる笑いは、随分と久しぶりのように感じられた。
 灰色の雲の間から、きらきらとした日の光が、地面に降り注いできていた。

「ちさとおねえちゃん」
「なあに、奏ちゃん」
 屈んで視線を合わせてやると、姉の娘である奏ちゃんが、はにかんだように微笑んだ。その幼い顔に向けて笑みを返すと、私はそっと胸中で溜め息をついた。
 あの後、姉は、お腹の子を堕ろすかどうかで随分と悩んでいた。大学生の身空ではこどもを自力で育てきることは難しいというのが、姉を最も悩ませた問題だった。
 奏ちゃんを出産する決め手になったのは、産婦人科で見た彼女の(そのときは性別はまだわからなかったが)エコー写真だった。そのときにはもう、妊娠十二週を過ぎていて、写真で見た奏ちゃんは、まだ不完全ながらも、紛うことなきなき人間のかたちをしていたのだそうだ。それを見た姉は、どうしても堕胎をする気になれなくなったのだ。
 姉にとって本当に幸運だったのは、両親が比較的裕福だったことだろう。姉自身に産み育てるだけの経済力はなかったが、両親にはまだ余裕があった。姉の思いを聞いた両親は、姉とよくよく話し合った上で、こどもの面倒を見ることに決めた。なんだかんだで両親は姉に甘い。
大学生という身分で相手もいないのに子供を産むことのデメリットも、姉は丸ごと飲み込んで、大学に休学届けを出して奏ちゃんを出産した。出産してからしばらくはそのまま奏ちゃんの育児に専念し、それから大学に復学して一年遅れで無事に卒業し、卒業と同時に家庭に入った。
 そう、姉は、今度こそ誠実な相手を見つけることができたのだ。
 姉は容姿に非常に恵まれていた。奏ちゃんが生まれた後も、産婦人科に通って相談を重ねるうち、姉は、そこに勤務する医師の一人と親しくなっていった。その男性はとても誠実な人柄で、驚きながらも姉の事情を真摯に受け止めた。婚姻を結ぶ際にも、わざわざ両親と私の前で、前の恋人との間の子でも自分が責任をもって養うから、結婚を認めてくれないかと、しごく慇懃な態度で了解を取りに来てくれた。両親は一も二もなく賛成したし、私も賛成の意を示しておいた。それというのも、その男性の目には、濁りが全くなかったのだ。
 高校生だった私はというと、大学生になっていた。時折姉に頼まれては、奏ちゃんを公園に連れて行ったり、幼稚園の送り迎えをしたりしている。
 今日は近くの公園に奏ちゃんを連れてきていた。いつものように奏ちゃんを放し飼いにして、日陰のベンチで束の間の休息を満喫しようかと思案していると、奏ちゃんがカーディガンの裾をくいくい、と引っ張った。
「おねえちゃん、あそこのひとの目、もやもやってなってるね」
 奏ちゃんの言葉に、私は驚いてベンチに向けていた足を止めた。
「……どういうふうに見えてるのか、奏ちゃん、詳しくお姉ちゃんに教えてくれるかな」
 ええとね、と奏ちゃんはまだあどけない顔に思案する色を載せた。
「あの、髪が茶色い男のひと。目のところがもやーってなってて、めのいろがわからないんだ」
 私は奏ちゃんの視線の先を追い、驚愕に目を瞠った。その茶髪の男性は、私の目にも、奏ちゃんが言うのとと全く同じように映ったからだ。
「奏ちゃん」
 なぁに? と不思議そうな顔をする奏ちゃんの顔を、私は真剣な面持ちで覗き込んだ。
「こんなふうに、他の人の眼が、もやってなってたり、どろっとなっていたりするの、みたこと、前にもある?」
「うん、ときどき」
「それ、お父さんやお母さんには、もう言った?」
「ううん、まだだよ」
 何でそんなことを訊かれるのかわからない、という顔をした奏ちゃんの答えに、私は微かに安堵した。それから、真剣さが伝わるように、けれど、深刻になりすぎないように気をつけながら、ゆっくりと奏ちゃんに言い聞かせる。
「うん、じゃあ、奏ちゃん。そういう人を見たら、今度からは、千聡お姉ちゃんにだけ、教えてくれるかな? それとね、このことは、奏ちゃんとお姉ちゃんだけの秘密にしようね」
「ひみつ?」
「うん、秘密」
 うんっわかった、明るく弾んだ返事が返ってくる。その幼いが故に真っ直ぐな返事を聞いて、私はほろ苦い感情がこみ上げてくるのを抑えきれなかった。
 この子はこれから、数え切れないくらい多くの苦しみを背負うことになるだろう。私自身が過去に遭遇して乗り越えてきたのと同じように。おまけに彼女は、家族の誰も言及こそしないが、所謂婚外子だ。二重に苦しみを味わうことになるのは容易に想像がついた。
 私にできるのはただ、彼女が「視える」自分を厭うようにならないように、寄り添うことだけだ。
「ちさとおねえちゃん?」
 不思議そうにこちらを見上げる奏ちゃんに笑みをひとつ返して、私は彼女の柔らかな髪の毛をそっと撫でた。奏ちゃんがくすぐったそうな顔をして身を捩る。
「これだけは、覚えておいて」
「なにを?」
「今はまだ、私の言うことすべては、わからないと思う。でも、忘れないで」
「奏ちゃんの言うこと、わからないっていうひとに、これから沢山出会うと思う。それで、厭な思いをすることも、あるかもしれない。でもそれは、そのひとたちが悪いんじゃないし、勿論、奏ちゃんが悪いわけじゃ、絶対にないの」
「辛いこと、あると思う。わかってもらいたくて、でも、わかってもらえなくて。でも、わからなくても、そばにいてくれるひとは、いるから」
 私を、桐島くんが支えてくれたように。
「……よく、わかんないよ」
 困りきった顔をする奏ちゃんの、小さな手をそっと握る。
「いいの、奏ちゃんのそばに、いてくれるひとが必ずいるって、それを覚えておいてくれるだけで」
 だから、どうか、――忘れないで。

 奏ちゃんを帰ってきた姉に返して家を出ると、桐島くんが門扉の直ぐそばで待っていた。もう、俊介と呼んだほうが、いいのかもしれないが。
「お姉さん、元気になってきたみたいだな」
「……うん、そうだね」
 先日、私は、「紫藤さん」が逮捕されたと聞いた。組んでいる女と、数々の男女から、姉に仕掛けたのと同じような手口で金銭を巻き上げていたらしい。紫藤というのはもちろん偽名で、なにか、ごく平凡な名前が本名だった。
 そのニュースがテレビで流れているのを聞いた姉は、ただ短く、テレビを消して、とだけ言った。私が言われたとおりにテレビを消すと、安らかな寝顔の奏ちゃんの額を撫でながら、姉は言った。このこがしるひつようはないわ。私がふっと顔を上げて彼女の顔を見てみると、そこには繰り返しごめんねと呟き続けたおんなはもういなかった。うん、そうだね。私はそれだけを返した。うん。姉も短く呟いて、奏ちゃんの髪をそっと撫でた。
 自分を騙したおとこの子供を生み育てるのがどんな感覚であるのかは、私には想像もつかない。姉も、「紫藤さん」のことを憎く思っていないわけがないだろう。戸籍上は今の夫の養子となっていても、実際には奏ちゃんは「紫藤さん」の子だ。
 けれど私は、奏ちゃんが知る必要はないと、毅然として言ったときの、凛とした彼女の眼を知っている。曇りもなければ濁りもない、透き通るような黒い瞳を。
 だから、私は、こう信じている。姉が何を思って奏ちゃんを育てているのかはわからないけれど、今の彼女ならきっと、奏ちゃんを慈しみ育てきることができるだろう、と。
 私と姉の家から出て最初の角を曲がったところで、桐島くんが私を振り向いた。
「いこうか」
 差し出された手に、私は自分の手のひらを重ねる。いつだって私に差し出される、その手を。
 そして、曇りも濁りもない彼の瞳を見上げて、小さく笑みを浮かべた。

 幼い頃、私と姉は同じ女の胎から生まれた姉妹である以前に、ひとつの秘密を分け会う仲間だった。
 姉はその秘密を失くし、私は今、姉の娘とその秘密を共有している。
 視えなくなってしまったがゆえにぼろぼろになった姉の娘は、私と同じ「視る」能力をもっていた。それがどういう意味を持つのか、その答えを、私は知らない。――誰も、知ることはない。

 答えを見つけられないまま、私たちは、出口の見えない悪夢の中を彷徨い続けるのだ。





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