幼い頃、私と姉は同じ女の胎から生まれた姉妹である以前に、ひとつの秘密を分け会う仲間だった。
知らないひとにでくわすと、大人たちがなにやら難しい話をしている傍らで、私たちはよくひそひそとその秘密を語り合ったものだった。
「45点」
「わたしは42点」
「はんぱだね」
「そだね」
私たちには周りの大人たちの瞳が、程度の差こそあれ、全てどんよりと暗く、濁ったものに視えていた。そして、大人たちの瞳の透明さに点数をつけるのが、私たちの編み出した秘密の遊戯だったのだ。
やがて母が言う。なにしてるの、失礼でしょう。はぁい、ごめんなさい。いえいえ、いいんですよ……
少し成長して小学校に入学した私は、クラスメイトの中にも、そういう濁った瞳を持つこどもがいることに気がついた。逆に、大人の中にも、澄んだ綺麗な瞳を持つひとがいることにも気がついた。例外は、赤ん坊だけだった。赤ん坊の瞳はすべからく少しの濁りも宿していなかったから。
成長すると共に目の前の世界も広がっていき、私は二つのことを学んでいった。一つ目は、他のひとの瞳が濁って視えるのは、私と姉だけらしいということ。二つ目は、瞳の濁っている人間は、他のひとを傷つけることを厭わない人間らしいということ。
小学五年生の頃だっただろうか、人気のない公園の前を通りかかった私と友人に声をかけてきた若い男性がいた。二十歳に行くか行かないかくらいの男性で、清潔感に溢れるひとだった。けれどそんなことは私の目には入らなかった。私には、彼の瞳は死んだ魚のそれのように、白く濁りきった球体として映っていたのだ。彼は学校帰りなの、と私たちに聞いた。はいそうです、と友人が答えた。その返答を聞いた彼の顔がいっそう柔和になる。ねえ。ねえ、よかったら、僕についてこないかい。楽しいことがあるんだけど。
ぱっと顔を輝かせた友人が、取り返しのつかない言葉を紡ぎ出す前に、私は彼女の手を引っ張って、その場で考え出した断り文句を述べた。すみません、叔父を待たせているんです。それに、塾に行かなきゃ、でしょ? 私に言われて思い出したらしく、萎れてしまった友人の手を引っ張って、私は早足になる。彼は追っては来なかった。
その数日後、近所で一人の青年が、幼い女の子を誘拐して監禁し、捕まったと聞いた。
「本当にふつうの、身なりのいい男性だったんですって。人は見かけに寄らないものね」
両親の会話の断片から拾い集めたその青年の情報は、私が出会った男性のそれとぴったり一致していた。
もしあのとき逃げ出していなかったら。そう思って恐怖に襲われた私は、夕飯を半分以上残して食卓を立った。ちさと、どうしたの。まさかあなた、このひとにあったことがあるの。そう問うてきた母の顔には、恐怖の色が浮かんでいた。
ううん、なんでもないよ。少し迷ってから、私は笑顔で答える。おなかが痛いだけ。部屋で休んでるね。残しちゃって、ごめんなさい。
部屋に戻った私に姉が尋ねた。ちさとは、まだ、あれが視えるの。うん、そうだよ。姉はしばらく押し黙ってから、のろのろと口を開いた。わからないの。え。わからないの、視えなくなっちゃったの。ねえちさと、私の瞳はどう視えているの? それは、瞳が綺麗かわからなくなったってこと? そう。それで、私の目は? どう視えるの? ……綺麗だよ、綺麗なままだよ。
そう答えると、姉はほっとした様子を見せた。そっか、ありがと。私の気のせいだったみたい。姉が部屋の扉を静かに閉めたのを確認して、私はベッドに倒れこんで手で顔を覆った。
ねえ、お姉ちゃん。どうしてわたしには、お姉ちゃんの瞳が、白く靄がかって視えるんだろう。
ねえ、――どうして。
私が異変の臭いを嗅ぎとったのは、高一の五月ごろだったと思う。昔は、周りの子供たちにも、私と同じものが視えているわけではないことを知らずに、私の視界のことを話して、気味悪がられることもしばしばだったけれど、ずいぶんと用心深くなっていた私は、自分の視界のことを他人に話すことがなくなり、クラスに自然に溶けこめるようになっていた。
「佐藤」
「どうしたの、桐島くん」
私と同じクラスにいる桐島くんは、私が鞄に教科書とノートを仕舞っている間僅かに沈黙した後、また口を開いた。
「――佐藤、幽霊が見えるって本当?」
「ぷっ、あはははははっ」
真面目そのものといった顔での桐島くんの質問に、気付けば私は思い切り笑い出していた。失礼だと頭の片隅では理解しているのだが、笑いは止まらないどころかいよいよひどくなってくる。
「こっちは真面目に聞いてるんだけど」
「あはっ、あはは、わかってるんだけど……」
念のために書いておくが、私は笑い上戸ではない。それどころか、常日頃、感情が顔に出ないから何を考えているのかわからない、と女友達に評されるような人間である。しかし止まらない止まらない。普段笑いなれていないからこんなことになっているのだろうかという冷静な考えが頭を過ぎるが、それすら笑いを止める手助けにはならない。
ひとしきり笑ってから、私はやっとまともに会話ができる状態にまで回復したが、
「ひーひー、横隔膜いたい」
「……ああそう、よかったね」
私の笑いが止まるまで放置された桐島くんは、呆れたような顔をして私を見た。本題を思い出した私は、こほん、と咳払いをして笑みを引っ込めた。
「少なくとも私には、幽霊は見えないよ。霊感も皆無だしね」
そう、私には、「幽霊は」視えない。もしかしたら幽霊以上に厄介なものを視てしまう能力を抱えてはいるが。
「ていうか、何でそう思ったの」
「……なんとなく、じゃ駄目か?」
「駄目だねぇ」
彼はかなり迷っているようだった。あー、だとか、うー、だとか、意味を成さない言葉が時折彼の口から漏れる。
「……なんて言えばいいのか、わからないけど。佐藤って、争いごとが起こる前に、うまく回避してる気がするから。しかも、クラスの誰も気づかないうちに。……って言ったら失礼になるのかな、ごめん」
私が目を見開いたのを、彼は悪い方向に取ったらしい。桐島くんが、謝罪を重ねてくるのを、私は首を振って止めた。
「――ううん、気にしてないから。大丈夫」
だって、あなたは間違ってないから。浮かんだ言葉は呑みこんだ。
「ちょっと、びっくりしたけど」
私が厄介ごとを上手く避けて回っているのは本当だ。濁っている瞳の人間を避けていけば、大体の争いごとは回避できる。
「机、運ばないとね」
私は鞄を掴むと席を立つ。そろそろ掃除が始まる頃合いだ。
「あ、引き止めてごめん」
「ううん」
机を持ち上げて教室の前に運び、扉から出る直前に桐島くんに囁いた。
「でも、桐島くん、勘がいいね」
「え? やっぱり何か」
不審げな声には答えずに、そのままするりと教室を抜け出した。答えられなかった、のだ。
「お姉ちゃん」
「どうしたの、千聡」
私が家に帰ると、姉は既に帰宅していた。
「お姉ちゃん、昨日も夜、帰ってこなかったよね」
「なに、またその話? 千聡は本当に心配性ね」
詰問口調にならないように、慎重に選んだ私の言葉に、姉はごくごく軽い調子で答えた。それを見て、私は胸の中でこっそり溜め息をつく。
大学生三年になった姉は、外泊する回数が明らかに増えていた。合宿だの友達の家に泊まるだの、もっともらしい理由を付けてはいたが、私にはそれが嘘だとすぐにわかった。そういうときの姉の声は決まって、どこか白々しい響きを伴っていたからだ。
「お姉ちゃんは、どこに泊まりにいってるの」
「だからぁ、百合恵の家」
「――おねえちゃん、本当は何処に行ってるの」
このときだ、私が異変を明確な臭いとして感じ取ったのは。
少し前から、厭な予感がしていた。瞳が靄がかってからも、姉の性格に大きな変化は見られなかった。姉の瞳が濁ることはなかったし、瞳が白い靄のようなもので覆われていることが、瞳が濁っていることと同じように、所謂心が濁っていることを指しているのだとして、その仮定は姉には全く当てはまらなかったのだ。
でももし、その仮定自体が間違っていたとしたら? 瞳が靄で覆われているのが、人を見る目が曇っていることを意味しているとしたら? その所為で、姉が心無い人に傷つけられることがあるかもしれない。だとしたら、姉をこのままにしておいては駄目だ。絶対に。
「……彼氏のところ、よ」
そう言ったときの姉の顔を、このときから十年経った今も、私は鮮明に覚えている。こいにおちたひとのかお。いつもの冷静な姉ではなく、ひとりのおんながそこにいた。
「彼氏って、どんなひと」
私の問いに、姉は恍惚とした笑みを浮かべた。その笑顔に、私の背中をひやりとした感触が走っていった。
「とってもやさしくて、いいひと。機会があったら、千聡にも紹介するわ」
「……うん、会ってみたい」
「でも好きになっちゃ駄目だからね? 私の、すきなひとなんだから」
「ならないよ」
そう、好きにはならない。絶対に。
「ならいいんだけど。……ああ、明日提出のレポート、そろそろ片付けないと。じゃあね、千聡」
「うん、お姉ちゃん」
姉が部屋から出て行ったのを見届けてから、私は壁に背を凭せ掛けて、そのままずるずると座り込んだ。膝を抱えて腕の中に頭を埋める。
好きにはならない。私がそのひとに会いたいのは、色めいた理由からではけしてないのだから。
桐島くんがまた声をかけてきたのは、それから一週間後、学校帰りのことだった。
「この前のことだけど」
「なんのこと?」
「佐藤が、その、ゆうれい、が見えるって話。あれ訊いた本当の理由なんだけど」
「うん」
「鈴城から、変な話聞いたことあって」
鞄の重みに痛みを訴える右肩から、左肩に鞄を移し変えようとしたとき、私は、桐島くんの言葉に、ぴくりと固まった。
「……美咲、から?」
声が訝しげになるのを止められない。――だって美咲は。
「鈴城から、聞いたことがあるんだ。小学生のとき、学校帰りに知らないひとに声をかけられたって。佐藤が止めたからついていかなかったけど、あのままついていったら、危なかったって。そのひと、小さな女の子を攫って家に監禁してた、って」
「……それで?」
「鈴城、こんなことも言ってた。でもそのひと、凄く身なりも良かったし、とてもじゃないけど幼女を誘拐するようなひとには見えなかった。千聡ー―じゃない、佐藤は、なんで気がついたんだろうって」
急速に胸が冷えていく感覚。私は気付けば微かな笑みを浮かべていた。一切の感情の入らない、冷え切った笑みを。
「そんなこと、言ったんだ」
美咲に悪意はない。それは十分すぎるほどによくわかっている。けれど、だからといって、この胸を冷たく凍らせていく諦念にも似た感情が弱まるはずもない。
――どんなに普通にしていても、普通ではないと気づかれる。あからさまに拒絶されることは少なくなったけれど、それでも、自分と深く関わろうとする者は、今でもいない。だってあのこはふつうじゃないから。
私と同じ景色を共有していたはずの姉でさえ、私に畏怖の目を向けることがある。それなのに、赤の他人にどうして私を怖れないことができるだろう。私の能力が正確にどういうものなのか、把握しているのは私と姉だけだ。正確に把握していなくても、いや、だからこそかもしれないが、周囲の何か恐ろしいものを見るかのような目は消えない。今も尚。
「で? 桐島くんは、何を言いたいの」
鞄を左肩に移し変えて、そのままくるりと彼に向き直る。
あなただって、同じなんでしょう。ああ――、ほら。そんな怖そうな顔をして。
「何か、俺たちと違うものが見えてるんじゃないか?」
「――だったら?」
口から出たのは、余りにも低く、また凍てついた声音だった。
「何だって、言うの?」
目線を上げて、しっかりと目を合わせると、桐島くんは僅かに怯んだ様子だった。
「いや、だから……」
「見えたとして、何なの。それが桐島くんに何か関係あるの。大体、それには確かな根拠もないんでしょう。憶測でものを言わないでくれないかな」
勘がいいね、なんて言わなければ良かった。見破られるはずがないと、どこか、高を括っていた。彼は私の想像以上に勘が良かった。多分、私が今まで会った人の中で一番。
桐島くんの口が閉ざされたままなのを確認して、私は踵を返そうとした。そのとき、道の向こう側から歩いてくる二人組みに気がついた。ひとりは背格好、着ている服の色合いからして姉だと思ったが、確証はもてない。隣にいるのはもしかして例の恋人だろうか。
私の様子がおかしいことに気づいたのか、桐島くんが再び声をかけてきた。
「あれ、佐藤の知り合い?」
「……さあ」
彼には悪いが、とてもではないけれど、今、彼とまともに会話をする気になれない。しばらく待っていると、距離が近づいて、向こうも私たちに気がついた。
「あら、千聡。学校帰り?」
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