東條と一緒にラーメンを食べた後、そのままおいしい苺のシュークリームがでるというカフェに来たまではよかった。気取らない雰囲気の店は居心地がよく、運ばれてきたシュークリームもとても美味だったから。
 しかし。しかしである。
「東條先輩、あの、わたし、本当にそろそろいかないと、まずいんです、けど」
「あはははははづきちゃんかーわーいーいー」
 酒など一滴も飲んでいないはずなのにこの酩酊ぶりはなにごとか。
(もしかして、いやもしかしなくても、わたし暫く帰れない?)
 それどころか入学早々東條と共に補導されるのではないかと、思わず遠い目になりかけた葉月の前に、救世主が現れた。
「あれ、野上さんどうしたの・・・・・って、ああ」
 ちりんちりん、という軽い音とともにカフェに姿を現した水島は、一目見るなり状況を把握したらしい。力付くで東條を回収しにかかったが。
「凛! いい加減に・・・・・うわっ」
「あはははは秋くーん。秋くんでもいいよー」
 もはや酔っぱらい状態の東條に抱きつかれ、首に回った腕で窒息しかけていた。
 その機に乗じて、ちゃっかり東條の手の及ばないところにまでぬけだした葉月であった。目の前の水島に向かって小さく手を合わせる。
(すみません水島先輩。でも)
 これ以上東條に絡まれたくはないのだと、葉月の瞳は雄弁に語っていた。

 自分の手には余ると判断した水島の対応は素早かった。携帯電話を取り出すなり東條の自宅にかけ、電話にでた東條の弟に回収を頼んだのである。
「いつも姉が済みません」
 開口一番そういった弟は(東條に似て無駄に美形であった)、持ってきていた水筒の中身を東條の口に流し込む。やがてすやすやと東條が寝息をたて始めると、東條の腕を抱えて歩き出した。
「一人で大丈夫?」
「外でタクシーを待たせてあるので、平気です」
 東條をタクシーに放り込んだ彼は、つかつかと水島に歩み寄ると、そっと耳打ちをした。
「ああなったら、度数の強い酒を飲ませるに限りますよ。少なくとも静かにはなりますから」
 冷静な表情で淡々と言われた言葉に、さずがの水島も無言になった。この境地に至るまで、この弟は何度あの面倒な状態になった東條を相手したのだろう。
「それでは。僕としては、しばらくお会いしないことを願うばかりなんですが、きっと数週間後にまた会うでしょうね」
 諦めが濃く滲む声の弟に軽く手を振られて、水島も苦笑した。
「ああ、そうだろうね。じゃあ」

「ごめんね野上さん。凜があんなんで」
 東條に絡まれているあいだに時刻は六時を回っていた。初見の場所では帰り道もわかりにくかろうと同行してくれている水島に、葉月はふるふると首を横に振った。
「いえ、楽しかったです。水島先輩と東條先輩って、幼なじみだったんですね」
「あー、まぁ、腐れ縁かなぁ」
「いろんなお話を聞きましたよ。水島先輩が小さい頃お人形」
 葉月が笑顔のまま発した単語に、水島がぎょっとした顔になる。
「わー、待って! それほんとやめて! おねがいだから」
「ほんの冗談ですよー」
 けたけたと笑う。やはり水島はからかい甲斐が会って面白い。
「それにしても東條先輩美人ですよねー。ちょっと憧れます」
 あの酩酊具合はいただけないが、東條に対する葉月の評価は、けして低いものではない。
「え、あの変態のどこがいいの」
「凛として、揺らがない。たぶん東條先輩は、まわりに何を言われたって、自分の信条を曲げないんだろうなって思えるところが、素敵だと思います」
 東條は生物学的にはどうしたって女性で、生物学的な定義を重んじるひとたちの中には、東條の行動に不快感を示す者だっているだろう。そんななかで、あの態度を貫くことにはそれなりの苦労が伴っただろうということは、想像に難くなかった。
 ほぅっとして黒味がかって来た空に瞬く星を見上げると、水島は葉月を見下ろして、ちょっと笑った。
「でも、おれは、野上さんみたいな子、好きだなぁ」
「わたしも、水島先輩や東條先輩みたいな先輩は、好感が持てます」
 葉月が星から視線を外さないまま答えると、水島が立ち止まった。自然、葉月も足を止めて、水島に視線を戻すことになる。
「ねぇ野上さん。それわざと?」
 そう訊ねたときの水島の声は、真剣な色を孕んでいると思った。それでも葉月は、おどけたような声音で返事を返す。
「わざとって、なんのことですか?」
 ちょうど切れかかっている街灯の真下だから、表情は仔細にはわからないけれど、それでも、水島の強い視線を感じる。葉月はうつむいた。
しばらくして、水島が、ふいーっと大きく息をついて、やっと張りつめていた空気が弛緩した。 
「手強いなぁ、野上さんは」
「・・・・・・」
 返しようがないので、沈黙を通す。根競べに勝利したのは、やはり葉月だった。
「でも、なんかさぁ、頑なに見えるんだよね、野上さんって。それは自分でも思うでしょ? 変化を怖れてる、っていうのか、さ」
「・・・・・・まぁ、」
「なにか、変わりたくない理由でもあるの?」
 まっすぐに見据えてくる瞳。他の少女たちはきっと、この瞳で見詰められることを熱望するに違いないけれど。でも葉月は、この瞳に、そこまで踏み込んで欲しくないのだ。
「     」
 口を開いて、何もいえないまま閉じる。かわりたくないりゆう。それをきっと、葉月はもう知っている。けれどその理由に名前を与える勇気は、まだなかった。
 ふぅ、と嘆息して見上げた空では、葉月の手の届かないところでちかちかと星が煌いていた。


「ひ、こ、さ、ん」
「はい」
 一週間後。何の含みもなく返された穏やかな顔に、葉月は束の間沈黙する。ここは春彦の住まう神社の境内、緑の葉が鮮やかな桜の樹の真下である。青空を飛ぶ小鳥の、ちちちち、という軽い声が、今の葉月の心境に全くそぐわない。
「葉月さん?」
「あのさ、一週間前にこの神社に来たんだけど、・・・・・・」
 ああ、と心得たように男は頷く。
「ええ、少しばかり用事があって、昨日は外出しておりましたよ」
 わかってしまえばなんと言うこともない理由に、葉月はしばし思い切り脱力した。
「かみさまって、神社を離れていいもんなの」
「それをいったら、神無月というものがそもそも存在しなくなりますよ」
 軽くいなされて、葉月は頬を膨らませた。
(なんとなく、ひこさんて、ずっとこの神社にいるもんだと思ってた)
 当たり前のことに気づけなかったのが悔しくて、ぷくぅと河豚のように膨れていると、ふと隣から視線を感じた。
「なに?」
 頬から空気を追い出してことりと首を傾げると、春彦は、いつもと同じように笑った。
「いえ、葉月さん、やはり、変わったんだなぁ、としみじみ思っていたところです」
「・・・・・・いや、まだ高校入ったばかりなんだけど」
「ひとが変わるのは、あっという間ですよ」
 春彦はそこで腰を浮かせる。「お茶を入れましょう」というなり、すたすたと神殿のなかへ入っていく。葉月は何度か神殿の中を覗いてみたことがあるが、ポットや湯沸かし器らしきものを目にしたことがないので、どうやって湯を沸かしているのかと内心疑問に思っていたりする。
 それぐらい、できるのかもしれない、かみさまだから。ふとした思い付きは意外に葉月を楽しませた。水を入れた薬缶を手に乗せるなり中の水が沸騰するなんて、面白いではないか。
 沸騰したお湯で葉月の脳内の春彦が火傷をしたところで、現実の春彦が戻ってくる。葉月は頭をぶんぶんと振って、氷を探そうとして慌てている架空の春彦を頭から追い出した。追い出しきる直前に、泣きそうな顔で見られた気がする。
「現に、」
 茶を差し出しつつの台詞が先ほどの流れを受けていることに気づいた葉月は、ちょっと面白そうな表情を浮かべた春彦を見上げた。
「葉月さん、きのう、おとこのひとと、いたでしょう」
「へ?」
 水島のことだろうか、と考えていた葉月は、続く春彦の言葉にぎょっとした。
「なにやら色香が満載の方でしたが。髪が長めでしたが、あれは流行っているのでしょうか」
「いやひこさんだって似たようなものだから」
 思わず突っ込んだ後に、葉月はすこし遠い目になった。
「あれ、おんなのひとだよ。詐欺紛いに格好いいけど・・・・・・」
「・・・・・・私の知らぬまに、男性を女性とお呼びすることになっていたのですか?」
「え!? いやいや違うよ! 東條先輩はおんなのひとだよ!」
「そうなんですか」
 やっと納得したらしい春彦の穏やかな声に、葉月は黙って顔を伏せて湯呑みをみつめた。あなたのかおにうかんだやわらかないろを、わたしは、どううけとればいいんだろう。
「てっきり葉月さんにもついに春が来たのかと」
 とんでもない誤解である。少なくとも葉月にそんなつもりは毛頭ない。東條のほうはわからないが、と考えかけたが、怖い想像になりそうだったのでやめておいた。
 やや伏せた眼差しに、彼の抱える湯呑みが映る。
「また、置いていかれるのか、と、そう思ってしまって」
「また?」
「いえ、単なる言葉の文です」
 へぇそうなのと相槌を打つだけの余裕は今の葉月にはない。彼女がしばし硬直していると、やっと春彦が訝しげな視線を向けた。
「葉月さん、どうしましたか」
 ぎぎぎぎ、とまるで音が聞こえてきそうなほどのぎこちない動きで振り向くと、葉月は――絶叫した。
「け、毛毛毛毛毛虫いぃぃぃぃl」
 葉月の握りしめる湯呑みの上に、やぁ、とでも挨拶をしそうな雰囲気で降りてきた毛虫が一匹。おやまぁ、と、春彦は、穏やかな調子を崩さずに言う。
「まぁ、葉桜とはそういうものですから」
「なに落ち着いてるのぉぉぉ!」
 恐怖と嫌悪感を丸出しにした葉月に、春彦はそれはそれは楽しそうに笑った。
「おや葉月さん。いけませんね、総ての生き物は等しく愛でるべきですよ。葉月さんがきれいだとおっしゃったあの梅の花だって、この毛虫だって、生きているんですから。そうでしょう?」
 理屈としてはわかる。痛いほど良く分かる。だが、感情と理性は別物なのである。いくら生命は平等だよ♪ と謳ったところで、怖いものは怖いのである。
「ですからね、葉月さん。毛虫だけ無碍に扱ってはいけません」
「御託はいいからとって!」
 いよいよ葉月が恐怖の余り倒れそうになると、やっと春彦が湯呑みの毛虫に指を寄せた。そのまま払い落とすのかと思いきや、この男、こんなときまで実に穏やかだった。それはもう憎らしいほどに。
「もし、すみませんが、この娘さんが、ええ、あなたの姿が恐ろしいそうなので、湯呑みの上から離れていただけると嬉しいのですが。・・・・・・はい、そのように」
 もそりもそりと、実に緩慢な動作で毛虫が湯呑みの上から姿を消して、ようやく葉月は金縛りから解放された。
「・・・・・・こわかったぁぁぁぁ」
 へなへなと地面に倒れこんだ葉月に、春彦は考える素振りを見せた。
「なに」
「いえ、やはり多くの女性は虫が苦手なようだと思いましてね」
 その言葉に踏ん切りがついて、葉月はおそるおそる春彦に問いかけてみた。
「ひこさん、」
「はい」
「・・・・・・わたしって、おんなのこに、みえるかな」
 葉月の切実な問いに、春彦はしばらく眼を丸くした後――やがてふわりと眦を下げた。

「葉月さんは、ちゃんと、おんなのこですよ」

 こみ上げる歓喜を悟られまいと、葉月は横を向いた。なぜだろう、春彦に「おんなのこ」と認めてもらえただけで、こんなにも心が軽くなる。さきほどの毛虫のことも水島や東條のことも、ぜんぶ吹っ飛んでしまう。
(よかったぁ・・・・・・)

 その言葉が、ほんとうに、あまりに嬉しかったから。

 ずっと昔から、という言葉を、葉月は聞き逃してしまった。





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