「先輩、亡くなったんなら、そう言ってくださいよ。お通夜はいつですか、ひょっとしてもう済んじゃいましたか。告別式くらいには参加したいので日程を教えてください。それにしても先輩、薄情じゃないですか」
「勝手に殺すな。まだ生きてる」
「半透明で言われても説得力に欠けますよねぇ」
 乙女たちよ、こいつはこういう奴である。形のいいくちびるから、無礼千万な言葉ばかりを吐き出す人間だ。
「ていうかなんでいるんだ」
「消しゴムが切れたので買出しついでの散歩です」
「・・・・・・へぇ」
「まぁ、冗談は置いといて」
「冗談かい」
「いえ、散歩の理由は本当です。ですけど、先輩は一体なんだって、そんなことになっているんですか」
「ああ、それは・・・・・・」
 あたしが答えようとしたとき、あたしの視界を、鮮やかな色彩が横切った。まるでそこだけに色がついているかのように、あたしの意識はその花に集中した。
「ああ、薔薇ですか」
「あの、はな、」
「お盆ですもんねぇ。薔薇を供えるのは、珍しいと思いますが」
「ああ、そうか」
「ああって先輩」
「いやぁ部屋に閉じこもっていると季節感覚が狂うんだよ」
「・・・・・・ひととして最低限度の生活って、知ってます?」
「どうでもいい」
「あ、ひどい」
「そんなことより、あのはな、」
「見たことない薔薇ですね。まぁ、薔薇って、呆れるほど種類がありますから、知らないものに出くわしても」
「ちがう」
「え?」
「ちがう。あたしは、知っていた。思い出せないけど、でも確かに、この花の名前を知っている」
(・・・・・・キレイな薔薇。わたしの為に? ありがとう)
 微かに痛む頭をさすりながら、あたしは小さく呻いた。思い出したいのに、思い出せない。あたしに、この花の名前を教えてくれたのは、誰だったろう。

「せんぱーい。せんぱいー」
「・・・・・・うるさい」
「だって先輩自分の世界に引き篭もって返ってこなさそうでしたから」
「引き篭もりって言うな」
「あ、戻った」
 あっけからん、といった調子ではしゃいで見せた後輩は、次の瞬間には表情をやや引き締めて、あたしに尋ねた。
「で、なんだってそんなことに」
「知らん。朝起きたらこうなってた」
 んー、と、ひとしきり悩んでから、後輩はこう提案してきた。
「じゃあ、こういうのはどうです? 先輩の家にとりあえず行く。僕が一緒なら、とりあえずインターホンは押せますよ」
「却下」
「なんでですか?」
「だってうち、あたし以外の誰もいないし」
「はぁ、じゃあ、先輩の体は、一人ぼっちじゃないですか」
 そのときのあたしは、後輩によれば、目を見開いて固まっていたらしい。目の前に後輩がいることも忘れたあたしの頭の中では、ただ、ひとり、という言葉が、何度も何度も繰り返されていた。
 ひとり、ひとり。……「ずっとひとりだった」。
(わたし、ずっとひとりだったから。あなたがきてくれて、すごく、うれしいの)
 そのとき、蝉の声が掻き消えた。
わたしの周りのせかいが、するするとその色を落としていく。耳が痛くなるくらいの静寂が辺りを支配して、茫然とするわたしの前で、様々な場面の断片が、次から次へと、現れては消えていった。翻る、真っ黒にはほど遠く、かといって茶色というのもしっくりこない、その髪。にこりと笑ったかんばせ。誰もいない病室。――萎れ朽ちた薔薇。

――ああ、思い出した。

 あの薔薇の名前を知っていた気がしたのは、あたしが、あの薔薇を育てていたからだ。咲いてすぐに枯れてしまったあの薔薇。枯れてしまったのは。
 あたしのせい、だ。

「後輩、わかった。おもいだしたよ」
 当惑したような後輩の顔を見ながら、あたしは言う。
「たぶんあたしは、あの子に呼ばれたんだと思う」
 だって今は、お盆だから。
死んだひとが戻ってくる季節だから。

 真夏だと言うのに、どこからか熱いミルクコーヒーを調達してきた後輩は、あたしにもう一缶を渡そうとして、その直前ではっと気づいたかのように、その手を止める。
「・・・・・・飲んだら?」
「はい」
 後輩がとりあえずあたしの横に座り、一缶目を開けたところで、あたしは話し始めた。
「あたしさぁ、昔、すごく世を僻んでる人間だったわけよ。受験に失敗して、そのときに親からかけられた言葉が心に刺さってて、さ。あ、今は別に気にしてないけど」
 こんな学校なんてたいしたことないんだと繰り返し繰り返し。受ける前にその学校ばかりを誉めそやしていたというのに、落ちた途端に手のひらを返したような態度。――ねぇ、だったら、あたしの二年間は、なんだったの。
「誰の言うことも信じられなくなってた。そんなときに、あのことあった。お人形さんみたいな姿なのに、妙に毒舌でさ。醒めた目でひとを見ているくせに、誰よりもひとのことを愛してた。あたし、クラスからも浮いてたんだけど、そのことは不思議に話が合って、よくその個のいる病院に通ってた。それで、会って三週間頃だったかな、あの子があたしに言ったんだ」
 癖のない、茶とも黒ともつかない髪に、生気の薄い白い肌。ああ、昨日のことのように思い出せる。
「あの子はあたしにこう言った。辛かったね、って。単純だけど、本当に単純だけど、それだけで救われた気がしたんだ。だってそれまで、あたしを責めるひとはいても、寄り添ってくれるひとはいなかったから。それからも、いつもみたいに沢山話して、その日は分かれたんだけど」
 翌日に、彼女は往ってしまった。
「もうすんごいショックで哀しくてさー。しばらくなんも手につかなくって。いっそ後を追ってやろうかと思ったんだけど、できなかった」
「・・・・・・何故か、訊いてもいいですか」
「だってさ、せかいがすごくきれいだったから。あのこ、最後に、空を見てほしい、って、言ってたんだけど、それで、あの子が死んでから暫く経って、見上げてみたらさ」
 あのこが亡くなってから久しぶりに見た空は、今まで見たどんな空よりもうつくしかった。あのこが教えてくれたことが、次々と思い出されて、それらの言葉は、実感を伴って、あたしのせかいを色鮮やかに染め上げていった。
「月並みだけど、せかいはこんなにうつくしかったんだって、あのこがいってたのはこういうことだったんだなって、そのとき初めてわかったんだ。だから、あたしにとって、あの子は特別なんだ」
「・・・・・・」
 何をする気にもなれなくて、ただ中身のない日々を送っていたあたしの灰色の世界に、色をつけてくれたひと。あなたがすきだった。
 あなたがいなくなってから、園芸部に行く気がしなくって、久しぶりに覗いた温室では、茶色くなった薔薇があたしを迎えた。
 なのにあたしは、あなたを覚えてすらいなくて。
「怒ったのかな、あたしに。あのこのこと、忘れてたから」
「違うと思いますよ」
 のんびりとした調子であたしの言葉を遮った後輩は、ミルクコーヒーを一口嚥下すると、ちらりとあたしを横目にした。
「多分、忘れて欲しくなかったんじゃないですか、先輩に」
 少し言いよどんで、後輩はまた、ミルクコーヒーの缶に、視線を落とした。
「先輩がそのひとを大事にしていたのと同じように、そのひとも先輩のことが大事だったんだと思いますよ。だからこそ、忘れて欲しくなかったんだと思います。先輩の思い出の中の自分まで、死んでしまうことが、耐えられなかったんじゃないでしょうか。・・・・・・少し暴走したみたいですけど」
「・・・・・・あたし、そんな大層な人間じゃないんだけど」
「破鍋に綴蓋って、知ってます?」
「あんた、二重の意味で失礼。生意気」
「それは失礼」
 本当に、生意気な後輩だ。あたしがベンチの上からふわりと移動すると、怪訝そうな視線が追いかけてきたので、くるりと振り返る。
「あんたも来る? あの子のお墓」

「きちんと手入れされてますねぇ」
「お母さんが、几帳面なひとだったからね」
 墓の、花を供える筒(名前を忘れた)には、色鮮やかな花が飾ってあり、墓石もきれいに磨き上げられている。墓石の前に立つと、あたしは一度、大きく深呼吸をした。
 礼儀作法なんぞ知らないので、ぱしん、と、手を合わせるだけで済ませる。でもその分、気持ちをちゃんと籠めた。
(思い出したよ。今まで来なくてごめん。忘れてて、本当にごめん)
 どのくらいそうしていただろう。ふと顔を上げてみると、後輩もあたしの横できちんと手を合わせていて、らしくもない真面目な姿に、あたしはちょっと笑ってしまった。
 さわさわ、と、木々が風に揺れる音がする。真上にあった日はもう傾いて、そろそろ夕刻になろうかという時間帯だった。
「さて、後輩。そろそろ帰るか」
「あれ、先輩」
 後輩、なんで眼を丸くしてんだ?
「およ?」
 なんか躯が凄い勢いで後ろに引っ張られている気がするんですが気のせいでしょうか気の迷いでしょうかいや絶対違う! 
 せんぱーい、と言っている後輩の声が、どんどん小さくなっていく。後ろ向きのままのあたしの視界を、周りの景色が凄い勢いで通り過ぎていく。
 そのまま部屋の扉を突き抜けたあたしは、真っ直ぐにあたし自身に向かって突撃し、――次の瞬間には、あたしの頭は、枕じゃない、何か硬いものに乗せられていた。
 まず、目を閉じたまま状況確認。どうやら、あたしの頭は愛用の枕ではなく、何か硬いものに乗せられている。そんでもって、頬に触れるのは、クーラーで冷たくなった、硬い木の感触。このふたつから、優秀なるあたしの頭脳は、ひとつの答えを導き出した。――あたし、机の上で寝てるんじゃない?
 時間にして一分足らずの思考を終えたあたしは、けれども、暫く机(推定)に突っ伏したまま、微動だにしなかった。
 だってさ、わかるよね? まだ幽体離脱したままだったら、あたしは、どうすればいい?
 考えること十数分、やがてあたしは、のろのろと自分の体を起こした。ん? ――あたしの体、ちゃんと着いてきてる?
「う、うわあああああ」
 もはや言葉になっていない音の羅列を吐き出しながら、あたしは、全く普段のあたしに似つかわしくないことに、その場でぴょんぴょんと飛び跳ねた。やった戻れた!
 ひとしきりぴょんぴょん飛び跳ねていたあたしは、そこで、玄関の方から叫び声がすることに気がついた。
 せんぱいー、もしかして戻れたんじゃないですかー、と外で叫んでいる後輩に、結果報告をするべく玄関に向かいながら、あたしは少しだけ微笑んだ。
 後輩にお礼をしてやらなきゃな。あいつは意外と甘党だって、かわゆいおんなのこが言っていたから、ケーキがいいかもしれないな。うん、久しぶりに外に出よう。駅前にオープンしたあの店、まだ行ったことはないけど、評判良さそうだし。あそこにしよう。
 そうすると久しぶりに外に出なきゃな。明日にでも出かけるか。服も折角だから着替えよう。あのこは華やかな色の服が好きだったから、久しく着ていないあのスカートを引っ張り出そう。
 久しぶりに外に出て、ケーキを買って、そして。

 あのこの好きだった花を買ってこよう。





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