序
一面の野原に、ひとつの影があった。
目の前の大木を見上げたまま、微動だにしない其の影は、見れば、未だ成熟しきっていない女のものであった。娘の、と言ったほうが、より正確かもしれない。
大木は、まるで雪が降り積もったかのような眺めだった。白き星と見紛うばかりの白い花が、昨夜から降り続いた雨にしっとりと濡れているのだ。まだ綻んでいない花の蕾が、たっぷりと水を含んで、重そうに垂れ下がっている。
この世のものとは思えぬほどの眺め、しかし其れを見る娘の顔色は浮かないものであった。其の色白の顔に、抑えきれぬ悲しみを乗せて、娘は大木を見上げている。
やがてはっと気づいたかのように顔を上げると、娘は、意を決したかのように其の唇を開く。愛らしい花唇から、透明な旋律が迸る。
娘の歌声は柔らかに野辺を渡る風に乗って、遥か彼方へと流れていく――
「リト」
不意に名を呼ばれた少女は、きょろきょろと顔を見回し、やがて己の名を呼んだ相手を見つけると、華やいだ笑みをその愛らしい顔に乗せた。
「どうしたの、イラ」
少女の問いに、少年は微かに微笑んで、其の隣に座った。そして二人の頭上を指し示す。
「ほら、オルガの花が綺麗だ」
「本当だ」
ふたりの目の前には、村の外れに聳え立つ、オルガという名の大木がある。この時期になると毎年、この木はその枝に抱えきれないほどの満開の白花を咲かせるのだ。
その木を見ながら感嘆の声を上げる少女に、少年は軽く声をかける。
「どうだい?」
「やっぱり綺麗ね。まるで梢の雪だわ」
そう言って少女が笑う、そのさまに、少年は一瞬意識を奪われた。微かに赤みがさした頬、漆黒の髪、闇色の瞳――少年は眼前の光景に見惚れた。
「・・・・・・どうしたの?」
怪訝そうな顔をする少女に、我に返った少年はからかうような声を投げた。
「いや、リトも随分大きくなったなと思って」
「ひどい、何時までも子ども扱いしなくてもいいじゃない」
ぷぅっと膨れた娘に少年は軽く苦笑して、少女のそれよりも一回り大きな手を、目の前の頭に乗せた。
この村に限らず、どこでも眼にすることが出来るような、平凡な日常。しかしこの場合においては、ただひとつ、仲睦まじいふたりの関係だけが、何よりも異質だった。
少年は人ではない。人の容を取った、人ではない、異形の存在。彼らは不可思議な力を持ち、山を崩し海を渡る。天を割り地を裂く。彼らの活動がそのまま天災となることも間々あり、人々は畏怖の念を籠めて彼らを異等――人とは異なるものたち、と呼んだ。そしてそれがそのまま少年の呼び名となった。幼い少女は、少年がそう呼ばれているのを聞いて、それが少年の呼び名だと取り違えたのだ。
異等は人よりも遥かに長いときを永らえ、人とは較ぶべくもないほどに強靭な肉体と、強い生命力を有する。そして、決して人とは交わらぬ、そのはずであるのに、何故かこの少年だけは、リトの幼い頃より彼女の傍にある。リトが物心着いたときには既に、イラは彼女の傍にいた。
リトにはそれがどれほど常ならぬことなのか、ある程度年を重ねるまで分からなかったが、最近では漸く己の立場を理解せざるを得なくなった。
リトは、この村――テオの村の長の娘であった。成長した折には、相応の相手の許に嫁がねばならぬし、現に彼女の相手は隣村の長の息子と決まっていた。
その様な状況下で異等である少年と会って言葉を交わすこと自体、本来ならば避けねばならないことであったのだ。娘と婚姻の契りを交わした若者が、その縁談に乗り気であるから余計に。
けれども――いや、自分の立場をよく理解しているからこそ、リトは不満を抱いているのだ。兄妹のように共に育ってきた相手と過ごす時間を、何故突然現れた男の為に割いてやらねばならぬのか、と。
リトは組んだ脚の上に頬杖をついて、不満そうに口を開いた。
「皆、心配しすぎなのよ。イラは何もしないのに」
「まあ僕は異等だからね。追い払われないだけ有り難いと思わないと」
少女の愚痴に対して、少年は飄々とした様子で答える。このひとはいつもそうだ、とリトは思った。自分と同じくらいの外見の癖に、どこか浮世離れしていて、時々、酷く老成して見えるのだ。
「ねぇ」
「なんだい?」
リトは、彼女にしては珍しいことに、思いをそのまま口に出すことを躊躇していた。暫く考え込んでから、やっと口を開く。
「・・・・・・イラは、どうして仲間のところに帰らないの」
イラは言葉を失ってリトを見詰めた。束の間、視線が交錯する。視界の僅かに下方から、邪気の無い闇色の瞳が探るように見上げてくる。ややあってイラは口を開いた。
「何、突然」
「・・・・・・なんとなく」
明らかに歯切れの悪いリトの様子に、少し笑ってしまう。イラは、そのまま畳み掛けるようにして言葉を紡いだ。
「僕のことが邪魔になった?」
「そんなんじゃ、ないけど」
リトは困り果てた様子で軽く俯いている。彼女はもとよりそれほど口数が多いほうではないのだ。その横顔をちらりと見てから、イラは前方に視線を戻した。
「・・・・・・まぁ、帰る気になったら帰るさ」
隣で、小さく息を呑む気配がして、イラはほろ苦く微笑んだ。
(知ってるよ、そんなこと)
――ずっとこの場所にはいられない、なんてことは。
(だから、せめて――リトが成人するまでは)
イラはリトに出会うまで、他の人間や異等ともあまり交流を持たず、ずっと各地を転々とする、流浪の生活を続けてきた。それは彼自身がそう望んだからでもあり、また、そうせざるをえない事情があるからでもあった。
異等の存在は、そこに住まう生き物全ての暮らしに影響を与える。しかもイラは、異等の中でもかなり力の強い部類に入る。ひとつところに留まれば、其処の生き物を全て死滅させかねない危険を孕んでいるのだ。だからこそイラはかつてその生活を続けていたのだし、その生活に特に不満を持つこともなかった――リトと出会うまでは。
イラが初めてリトに出会ったのは、彼女が六歳のときであった。リトは、イラがそう言うときは決まって、嘘だ、もっと前から知ってる、と言うのだが、こればかりは事実なので仕方がない。イラがリトに出会ったのはリトが六歳のときで――まだ、十年しか経過していない。そのあいだに、リトはイラが驚くほどの速度で成長を遂げていった。
人間にとってはごく普通のものなのであろうリトの成長速度が、イラにはとてももの珍しいものに思えた。それこそがイラのリトに近づいた切欠であったし、その速度に大分慣れたはずの今でさえ、時折あまりに早い成長に驚いてしまう。
人間も、動物も。異等以外のこの世に存する種族は全て、短命で儚いものだという教えを受けてきた。ゆえに、自分たち異等は他の生き物と余り関わりを持つべきでないし、よしんば関わりを持ったとしても、その相手は直ぐに死んでしまうのだ、と。
確かに、見かけの年齢こそリトと合わせているが、この世を生きてきた年数には、それこそ数百年ほどの差があるはずだということを、イラはよく承知していた。異等以外のものと深い関わりを持つこと勿れ、遺されるのはいつも決まって異等の方なのだ。だからこそ、一時の興味でもってリトに近づいても、それ以上の関係は持たないものと決めていた、のに。
(あなたはだあれ?)
耳の奥に響くのは、幼いリトの声の残響。
(異等。僕は――異等だ)
自分の思惑などは微塵も察知していないであろう、彼よりも遥かに年下の少女に、イラは予期に反して尻込みをしてしまった。
(いらくん? りとといっしょにあそぼうよ)
イラは、反射的に人間たちが自分たちに付けた名前を名乗ってしまったが、余りにも無垢な好奇心を秘めた幼すぎる瞳は、そう言ってふわりと微笑んだのだ。
その瞳を、イラは――この上もなく美しいものだと感じてしまったのだ。
そしてそのとき心に決めた。
例え永遠に共には在れないとしても――せめて彼女が成人するまではリトを傍で見守っていようと。
イラにはかつて別の名があったが、今ではその名を覚えていない。イラはリトがそう呼んだときから「イラ」だったし、それ以外の何者にもなりえないからだ。
一度だけ、リトが「イラ」という言葉の持つ意味に気づいたときに、イラに訊ねてきたことがある。自分はこのまま「イラ」と呼んでいいのかと。
リトに他意がないのは分かっていたので、イラは別に気にも留めていなかったが、そう聞かれて暫く思案し、漸く答えた。――僕はこの名前が気に入っているから、このままでいいよ。
その返答を聞いたとき、リトは一瞬――とても嬉しそうに微笑んだのだ。
人間の成長はとても早い。それこそ異等が置いていかれるほどに。その認識はリトと交流した今でも変わっていないが、ひとつだけ痛切に理解したことがある。
人間の生は確かに短い。けれどその分、人間たちはその短い時間をより濃密なものにするべく、絶え間ない努力を重ね続けているのだと。
彼らの生は確かに短いだろう、けれどその時間の一瞬一瞬が、夜空に瞬く星のようにきらきらと輝いているのだ。彼はリトと出会ってそれを知った。人と過ごす、彼女と過ごす時間の、かけがえのないことを知った。
彼女は後十数日で成人し、隣村に嫁ぐことになっている。そうしたら自分はもうこの村を去ろうと、イラは予め決めていた。リトにはまだ話していない。話さぬままに去ろうと思う。
その一方で、この時間が後少しでも長く続くようにと、願わずにはいられないのだ。
(ああ、あと少しだけ――)
それから数日、リトとイラが連れ立ってテオの村の入り口へとやってきた日のことだった。その日は数日に渡って続いた雨の後にやってきた快晴で、美しい七色の架け橋が空に半円を描いていた。その架け橋がとても美しかったゆえか、自分はもう直ぐこの村を出て行くのだと、リトはらしくもない感傷に囚われたものだった。
そして、その日の情景は今でもリトの眼に強く強く灼きついている。リトが嫁ぐ、二日前のことであった。
「リト」
村に入ったところで、イラがリトに声をかけた。
「じゃあ僕は此処で。もう大丈夫だよね?」
「うん、平気。イラ、今日はありがとう」
「・・・・・・リト」
突然少女の名を呼んだのは、少女の隣にある少年ではない。
声の方に顔を向けた二人が見たのは、怒りに震える少女の婚約者だった。
「キロ? どうしたの?」
「・・・・・・なんで」
キロはうわごとのように呟いてリトを見た。焦点が定まっていないその瞳に、リトは少なからず恐怖を覚えた。イラがリトを庇うかのように前に立った。
「リト、なんでお前がその男と一緒にいるんだ」
言いつつキロがリトに向かって手を振り上げる。リトは咄嗟に顔を手で庇って眼を硬く瞑った。
――ぱあんっ
乾いた音がして、リトは恐る恐る眼を開けた。
「イラ!」
キロの平手を受けたのはリトではなくイラだった。少年は左頬に赤い血を滲ませながらも、ただ静かな双眸をキロに向けていた。
その眼差しに、キロはむしろ、自分の行動が信じられないとでも言うかのような顔をした。
「リ・・・・・・、リト。俺は・・・・・」
若者の口から漏れ出す弁解の言葉。けれども少女は彼に何の関心も払ってはいなかった。ただ、自分を庇った少年の姿のみを注視する。イラの口がゆっくりと動いた。
――ごめんね、さよなら
その二言のみを残して、少年は身を翻し、後方の森の中へと消えていく。
「イラっ!」
リトは一声叫ぶと、彼を追って森の中に姿を消した。
「イラ」
森の奥深くで漸く探し人を見つけた少女は、安堵と共にその名を呼んだ。しかし少年は振り返らない。背中越しに、冷たい声のみを投げて寄越す。
「追いかけてきちゃ駄目だったのに」
「イラ、こっち向いて、イラ」
「僕はずっと君の傍にはいられないから、本当は」
「そんなこと言わないで」
「・・・・・・本当は、君が成人したら直ぐ、この村を去るつもりだったのに」
「・・・・・・え・・・・・・・?」
嘘でしょう? とでも言いたげな顔でリトはイラを見た。そして相手の顔に偽りの色がないのを見て取ると、その顔を絶望の色に染めた。
「イラ・・・・・・なんで・・・・・」
「僕は異等で、君は人間だ。だからだよ」
驚愕が滲む少女の声に、少年は敢えてきっぱりと答えた。
「本当はもっと早くに離れるべきだったんだ。僕はひとつところに留まりすぎた」
「そんなこと言わないで、イラ、イラっ」
「だから今日僕は此処を離れる。・・・・・・もう、決めたんだ」
そう言って再び踵を返そうとするイラの様子に、リトの思考が白熱した。
殆ど何も考えずに、去っていく影に向かって飛びつく。
しかし、前述のように、彼女は殆ど考えていなかったのである。――即ち、歩き去るものに勢いよく飛びついたらどうなるのかを。――結果、
「リト!?」
珍しく泡を食ったようなイラの声と共に、リトの躯は、イラのそれを巻き込んで、勢いよく地面に叩きつけられた。リトは自分の衝撃よりも、イラの身体に加わったであろう衝撃に青ざめて、勢いよく立ち上がろうとした。
「リト」
しかし彼女は直ぐ耳元で聞こえた声に動きを止めた。その声には申し訳なさが溢れていた。
「・・・・・・ごめんね」
「ずるいよ、イラはっ・・・・・・!」
リトの瞳からとめどなく涙が溢れ出す。イラはそれを親指の腹でゆっくりと拭った。
「梨斗」
そしてゆっくりとリトの身体を引き寄せる。いまだ経験したことのない温もりに、リトは大きく眼を開いて暫くの間硬直した後、やがて大きく破顔した。そのまま眼を閉じて――唇を寄せる。
「伊良」
白雪を枝いっぱいに抱えた大木の許、ふたつの影は何時までも離れない――
跋
娘ははっと顔を上げた。そうしてぐるりと顔を巡らし、捜しているものが見つからなかったとでも言うかのような様子で僅かに顔を伏せた。
あの後少年はこの村を去った。それは誰にも止めることの出来ないことで、娘もただ見送ることしかできなかった。けれども、彼が去る間際に娘を庇ったことで、村人たちの異等に対する目は以前よりも大分温かいものになった。
娘と婚約者であった青年との縁談は立ち消えになった。青年が激昂して娘に手を上げたのを見ていた者がいたらしい。他の男たちもなんとなく少年に遠慮したお陰で、三年経った今も娘はいまだ独り身である。
娘は暫く微動だにしないまま目の前の大木を眺めていたが、やがてきっと顔を上げると、その愛らしい唇を開いた。
言葉に出来ない思いを容にするべく、娘はただその清らかな旋律を唇に乗せる。
歌は遥か空高くを渡っていく。空を山を海を川を。
そして、遥か遠くの、待ち人の許へと――
NOVEL
copyright@ Mitsuki Minato 2011- Since 2011.10.22.
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