僕がその少女に初めて会ったのは、光溢れる庭の中、瑞々しい真紅と白の薔薇が巻きつく柵の傍だった――なんて言ったら、君たちはありきたりだって笑うだろうか?
 でもね、これから話すのは――僕、アレクに起こった、本当の話なんだ。

 僕はその日、母がお客様を呼んで盛大にパーティーを催すと言っていたものだから、小脇に絵の具とパレット、それに僕愛用のスケッチブックを抱えて、こっそりと屋敷の自分の部屋を抜け出したんだ。
だって嫌だろう? そんなもの。
例えばあるご婦人が僕にこう話しかける。「あら可愛らしい坊ちゃまね、お名前はなんて言うの?」僕はちょっとおどおどしながら、遠慮がちにこう答える。「僕、えっと、アレクと言います。」そんな僕を見て、かの女は満足そうに微笑むんだ。「あら、利発なおこさんだこと!」――ああ、全くなんて無意味な時間!
 残念なことに――そう、全く残念なことに! こういうとき、多くの場合において、かの女たちは僕自身を見ていないんだ。え? 僕は彼女たちの前にいるんじゃないかって? もちろん、いるさ。ただかの女たちは、つまり、ナントカ公爵とその夫人の間に生まれた将来有望なご子息としてしか僕を見ていない、ということなんだ。
 ああ、大分話が逸れたから、そろそろ続きを話そうか。とにかく、僕は自分の部屋の直ぐ傍に生えている大きな樹をつたって地面に着地し、首尾よく屋敷を抜け出したまでは良かったんだけど――そこでどこへ行けば良いのかわからなくなってしまったんだ。
 ああ、話すのを忘れていたね。僕は、休暇――つまりはバカンス! でその屋敷に来ていたわけで、つまりそこは別荘だったんだ。だから、そこに来るのが初めてだった僕は、別荘の傍に何があるのか、全く知らなかったというわけさ!
 まあ、そういうわけで、僕は見知らぬ土地で迷っていたわけなんだけど、そのとき、ちょうど甘い花の香りが僕のところまで漂ってきたんだ。僕はそれに半ば釣られるようにして、一軒のお屋敷まで辿り着いたんだ。
 その屋敷は、屋敷というには少々小ぢんまりとしていたし、庭も僕のそれと比べるとずいぶん狭いものだったけれど、とても小洒落れた雰囲気を持つ、瀟洒な屋敷だった。その庭はこれまた趣味の良さを窺わせる薔薇の絡みつく柵によって外からの視線が遮られていたんだけど、その隙間で亜麻色の絹糸のようなものが動いているのが見えて、僕はどうしてもそれが何か気になってしまったんだ。
 今だから言う。このとき僕のしたことは、決して褒められたことじゃない。ただ、この時の僕は、ただその絹糸の正体を確かめるのに夢中になっていて、自分が何をしているかなんて殆ど眼中に無かったんだ。
 率直に言おう。僕は、肌に薔薇の棘が刺さるのにも構わずに柵をよじ登り、その向こうにひらりと着地した。そして、目の前に現れたまん丸の綺麗なエメラルドをじぃっと眺めた。
 目の前のまん丸のエメラルドは女の子の瞳で、亜麻色の絹糸はかの女のつやつやとした髪だということに気づくのに少しかかって、それまで僕は初対面の女の子の顔をじっと見つめていたんだから、今思い返すと本当にいたたまれない。エメラルドの傍の柔らかそうな頬が見る見るうちに赤くなっていくのを見て、ようやく自分が何をしていたのか悟った僕は、びっくりして女の子から距離をとった。
 しばらく気まずい時間が流れる。まあそうだよね。いくら子どもとはいえ、いきなり男の子が目の前に現れたら普通は驚くよ。
 だけど、その女の子はしばらくうつむいて顔を伏せていたんだけど、ドレスの裾を摘んでいた小さな手のひらにぎゅうっと力が籠められたかと思うと、決然と顔を上げて僕を見つめた。
「あの、わたしはソフィ。あなたは、だぁれ?」
 花のようなくちびるから漏れ出たのは、とても小さな声だった。ドレスを握った手が、細かく震えている。僕はともすると消えてしまいそうな声を励まして、懸命に言葉を紡いだ。僕の喉はからからに渇いていた。
「僕、は、アレク」
 ソフィは少し首を傾げた。亜麻色の髪が、ふわりと揺れる。
「アレク、くん? どうして、ここにいるの?」
「えっと、つまり、その――きれいなばらが、見えたから」
「ばらが好きなの?」
「うん。まあ、そういうところかな」
 ソフィは少し身をかがめて、純白の薔薇にそのふくよかな手を寄せた。
「そっか。じゃあ――」
「あ、ちょっと、」
 声を出したのは同時だったけれど、かの女はそのことに随分と怖気づいてしまったらしく、澄み切ったエメラルドに一瞬怯えの色が過ぎった。ああ、と僕は少し後悔した。きっと、女の子は砂糖菓子みたいなものだから、やさしく扱ってあげないと壊れてしまうのだ。
「あのさ、少しだけそのままでいてもらって良い?」
 ソフィは恐る恐るのように頷いたが、その体は硬く強張ったままだった。まぶたまで硬く閉じていて、なんだか申し訳ないような気分になってしまう。
――駄目だな、これは。
 手を伸ばしてソフィの髪に触れ、その髪に付いていた木の葉を摘んだ。
「もういいよ」
 言うと、そっとそのかんばせを上げる。僕の摘んでいた葉っぱを見ると、さっと顔を赤くした。
「あ、あの、ごめんなさい・・・・・・!」
 かの女はそのままわたわたとしていたかと思うと、急に僕に向き直った。
「あの、お茶をご馳走しますね!」

 ソフィが慣れた手つきでポットから苺の模様が刻まれた白いティーカップに紅茶を注いでいく。僕はテーブルに肘をついて、その様子を見るともなしに見ていた。
 亜麻色の絹糸に縁取られたエメラルドが陽光を吸い込んで柔らかな光を放っており、花のようなくちびるには微かに笑みが浮かんでいる。長いまつげは日の光を受けて金色に輝いており、さながら薔薇の香りに誘われてこの庭園に迷い込んだ、花の妖精のようだった。
「はい、どうぞ」
 にっこりと笑って、ソフィがカップを差し出してくる。
「それじゃ、いただきます」
 口を付けると、予想に反して甘酸っぱい香りが口の中に広がった。思わず口を離してまじまじとカップをみると、そこでは紅みがかかった液体が、ゆらゆらと揺れていた。
「これって、薔薇の紅茶?」
「あたり」
 そう言ってかの女は笑う。ふわり、春風が吹くように。

 かの女が出してくれたクッキーを摘みながら、僕とかの女はしばらく他愛無い話をしていた。お互いの家の話とか、兄弟の話とか。かの女が飼っている猫の話をすれば、僕はわがままな姉の話を。かの女がメイドの失敗を話せば、僕はコックの癖を。
 そのうち、楽しそうに話していたかの女の反応が段々と鈍くなっていく。その瞳が、ぼんやりとした光を帯びてきたことに僕は気づいた。
「ねむいの?」
「そんなこと、ない」
 かの女はふるふると首を振るが、その頭はゆっくりと船を漕ぎ出している。
「ねなよ」
 やがて亜麻色の絹糸が椅子の背に散らばる。それを見て、僕はスケッチブックを取り出した。

 辺りが真紅の薔薇の色に染まった頃、僕はほぅと息をついた。手元には愛らしい少女が椅子にもたれて眼を閉じている姿を模写した二枚のデッサン。一枚はかの女のための。もう一枚は――
「・・・・・・これくらいはゆるされるよね」
 本当はさっきからかの女の姿をスケッチしたくて堪らなかったのだから。

 まもなくソフィは目を覚ますだろう。この絵を見て、かの女はどんな反応を返してくれるだろうか。頬を染める? 怒る? 驚く? それとも――

 喜んで、くれるだろうか。さっきみたいな花のような笑みを、見せてくれるだろうか。
(ねぇソフィ。早くおきてよ)

 心のうちだけで呟いて、僕はソフィの寝顔に見入った。


 ぼくはご婦人方と話すのは苦手だ。だってぼくを見ないで勝手に話を進めてしまうんだもの。だけど、僕にとってこの時間はとても意味のあるものだったなんて言ったら、君は笑うだろうか?

 目を覚まして真っ先に絵を見たかの女が見せた反応は、誰にも言わない。――ぼくだけの、秘密。





NOVEL
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