「ただいま!」
「おかえりぃ、おやついる?」
「いい! 本読むから!」
(ごめんねお母さん。わたし、ひとつだけ嘘ついた)
心の中で小さく母に詫びてから、自室に飛び込む。通学鞄を半ば部屋に放り込むようにして、ばたん、と扉を閉める。ぱたぱた、と階段を駆け上がって、それから。
「こんにちは!」
「うん、こんにちは」
わたしが部屋に入ってくるのを見た彼は、本を読んでいた手を休めると、にっこりと笑ってわたしを見た。
「ようこそ、久しぶりだね、ナギサ」
そう言って細められた眼は、確かに、きれいな翠色をしていた、のだ。
早川 渚(はやかわ なぎさ)、それがわたしの名前だ。十四歳である。
そして、わたしの目の前にいるこの男の子はフォンセリア・ソリテュード。名前から直ぐ分かるように彼は日本人ではないし、ここは日本ではない。では何故わたしがここにいるのかと言うと、話は数ヶ月前の夏休みの始まりにまで遡る。
幼い頃、わたしは、家の中で一番といってほぼ差し支えないくらい、屋根裏部屋が好きだった。それこそ、自分の部屋以上に屋根裏部屋にいる時間の方が長いくらい、そこが好きだったのだ。
けれど中学に上がってからは余り屋根裏部屋に行かなくなっていて、その間に、どういうわけだかわたしの家の屋根裏部屋はここ――フォンセの屋敷に繋がってしまっていたのだ。
初めてフォンセを見たとき、わたしは目を丸くして、こう言った。
「あれま」
対してフォンセは(因みにこのとき、彼はいかにもふわふわそうなソファーに座って本を読んでいた)、その翠色の瞳をすぅっと細めると、不可解だ、という顔をしてこう言ったのだ。
「・・・・・・きみ、だれ」
「渚。早川、渚」
ナギサ、とわたしの名前を口の中で転がしてから、フォンセは名乗った。
「そう。ぼくはフォンセ。フォンセリア・ソリテュード」
「フォンセ・・・・・・フランス人?」
「ふらんす?」
そう言葉を反復してみせた彼は、今にもWhat’s that? とでも言いそうな顔をしていた。・・・・・・いや、名前はとてもフランスっぽいんだけど、でも何となく。
そんなことを考えていたわたしは、唐突に、今日はこれから友達の家に遊びに行くことになっていたのを思い出した。仕方ない。ここにはいたいけど、友達との約束を破るわけには断じていかないから。
それでわたしは、彼の方に身を乗り出して、にこにこしながらこう問いかけたのだ。
「まあいいや。これからも遊びに来ていい?」
「は?」
「いいよね?」
「・・・・・・はぁ」
ここぞとばかりに押しまくるわたしに、彼は肯定とも否定ともつかぬ何とも曖昧な返事を返してくれた。わたしは勝手にその言葉を肯定と受け取る。
「じゃ、またくるね! 約束だよ!」
そう言ってひらひらと手を振ると、彼はようやく状況が飲み込めたようで、ややぎこちない(強張ったとも言うかもしれない)笑顔で、手を振り返してくれたのだった。
それから、わたしは何回もフォンセの家に遊びに行った。遊びに行く頻度は二、三日に一回くらい。最初はわたしが行く度に困ったような笑顔を浮かべていたフォンセも、わたしが通いつめるにつれ、段々と態度を柔らかくしていった。
ある日わたしが遊びに行くと、キッチンの方から甘い匂いがしていた。
「こんにちは!」
「うん、こんにちは。久しぶりだね、ナギサ」
わたしがキッチンに現れても、フォンセは大して驚いた様子を見せなかった。
「ちょうどパンケーキを作ったところなんだけど、食べるかい」
「うん」
フォンセは慣れた感じで食卓を整えると、わたしの前のお皿にパンケーキをいくつか載せた。かけるのは、金色のバターと、琥珀色のとろりとしたメープルシロップ。
フォークを突き立てると甘い香りが漂うパンケーキはとてもおいしかった。
わたしがパンケーキを食べるのに熱中している間、フォンセはにこにこしながらわたしがパンケーキを口に運ぶのを見ていた。
「フォンセは食べないの?」
「うん、ぼくはいいんだ」
「ふぅん。こんなにおいしいのに」
このとき、わたしは、不思議に思わなかった。なんで、フォンセがわたしと一緒にパンケーキを食べようとはしなかったのかを。――ううん、本当は気づいていたのかもしれない。それを見ないようにしていたのは、
(いつか来るこの穏やかな時間の終焉に、わたしは気づいていたからだ)
パンケーキを食べながら見上げた窓の外では、緑の葉が夏の日差しを反射してきらきらと光っていたことを、わたしは今でも鮮明に思い出すことができる。
「何読んでるの?」
夏が終わる頃、またもや遊びに来ていたわたしがソファの背もたれから顔を突き出して覗き込むと、フォンセは、ああ、と声を上げた。
「・・・・・・・『闇の杯』」
「へぇ、フォンセってそういうの読むんだ」
フォンセが読んでいたのはいわゆるファンタジーらしかった。本の表紙には銀色の十字架と、赤いワインがなみなみと注がれた杯があしらってある。それを意外に思って口に出したわたしに、彼は少しだけ皮肉めいた笑みを閃かせた。
「好きで読んでるんじゃないけどね」
そう言って、ぱたんと本を閉じる。わたしがその行為に疑問を持つ前に、彼は話題を切り替えた。――意図的に。
「それよりさ、今日、遊びに行くって約束してたでしょ」
「あ、うん、そうだね。・・・・・・今から?」
決まってる、そう言って彼はおかしそうに――でもどこか寂しそうに、笑った。
「わー、中世ヨーロッパ的な」
「・・・・・・何それ」
ぽつん、ぽつんと間を空けながら建っている洋風の邸宅を見ながら、わたしとフォンセはのんびりとと歩いていく。いつの間にか季節は夏から秋へと移行しようとしていたらしく、辺りは赤や黄色の鮮やかな色彩に染め抜かれていた。
きれいだな、素直にそう思っていたわたしは、ふと、少し前にフォンセと交わした会話を思い出した。少しだけ顔がにやけていたらしく、隣にいたフォンセが怪訝そうな顔をして、どうしたの、と訊ねてきたので、何でもない、と返した。
(外、行ってみたい)
(・・・・・・何で? 行けばいいじゃないか)
(だって、外に行ってみたいけど、迷ったら困るし)
(わかった、わかった)
フォンセとそんな会話をしたのは一週間ほど前のことで、でも彼はその約束をきちんと覚えていてくれていて、それが何より嬉しかったのだ。
「やっぱり外は中世ヨーロッパなんだねぇ、家が日本と全然違う」
「・・・・・ナギサ、頼むからぼくにもわかるように説明してくれないか」
フォンセが呆れたような顔でわたしを見たとき、知らない女の人の声がかかった。
「フォンセリア? フォンセリアじゃないか」
赤いぴっちりとしたスーツに包まれた彼女はとても――えーと・・・・・・青少年の教育上非常に宜しくない感じのお姉さんだった。うん、これなら問題ないよね。
そのお姉さんはわたしをじっと見ていたかと思うと、屈みこんで顔をぎりぎりまで近づけた。蠱惑的なまでに赤い唇がわたしの目の前にあって――うぅぅ。お願いだからもう少し離れて! わたしにそっち方面の趣味はないよ!
赤くなったり青くなったりするわたしをおかしそうに眺めながら、お姉さんはフォンセに声をかけた。心なしかフォンセは硬い顔をしていた。
「この可愛らしいお嬢さんは――もしかして人間かい?」
やるねえ、フォンセリア。からかうような声を上げながら自分を見たお姉さんに、フォンセは静かに言葉を返した。
「久しぶりだね。・・・・・・ウンディーネ」
へぇ、このお姉さんはウンディーネさんって言うんだ。暢気にそんなことを考えていると、フォンセがわたしのやや上を見ながら硬い声を出した。
「・・・・・・ウンディーネ、ストップ」
声につられてわたしが上を見ると、ウンディーネさんはまさにわたしの頬に手を伸ばそうとしていた。わたしはびっくりして飛びずさる。全然気づかなかった。
ウンディーネさんはわたしの抗議を込めた視線をまるで意に介していないようで、ただフォンセの方を愉快そうな顔をして眺めていた。
「・・・・・・へぇ、面白いことを言うじゃないか。あんたが、その娘を庇うのかい?」
「ええ」
フォンセの表情は相変わらず硬い。翠色の底にある意思が、読み取れない。
ふたりはしばらく見詰め合っていたが、先に視線を外したのはウンディーネさんの方だった。
「・・・・・・ふぅん。じゃああたしは手を引くかな」
その言葉にわたしが顔を上げると、もうウンディーネさんはいなかった。
(そういえば、どうやってここに現れたかも覚えてない)
不思議に思ってフォンセの方を見ても、彼はわたしの方を見ない。
「・・・・・・フォンセ?」
フォンセは視線を地面に向けていたかと思うと、ふぅと息をついた。長い長い溜息が終わると、彼はわたしに向けて手を差し出した。
「帰ろうか」
「――うん」
何となく、彼は今し方起こった出来事について触れられたくないんだと、そう思って、わたしはただ、そっとその手を取った。
「・・・・・・フォンセの手、ひんやりしてる」
「・・・・・・うん」
始めて触れた彼の手は、まるで水棲生物か何かのように、とても白くてひんやりとしていた。そう、まるで人間らしいあたたかさに欠けた手だった。その掌に少しでも熱を分けようとして、わたしはつめたい手をぎゅっ、と握った。
(本当は気づいてた、)
(彼が人間じゃないってことは)
(そう、――とっくに)
手と手の間に微かな、不思議な熱を共有しながら、わたしたちはゆるやかに秋めいていく風景の中を、ゆっくりと歩いていったのだ。
その日は、何かが違うと思った。何が、と聞かれてもきっとわたしは答えられない。ただわたしは、何かが違うと感じた、その直感を信じた。
「ようこそ、久しぶりだね、ナギサ」
穏やかな声も。わたしの名前を呼んで細められた眼も。目に見える何もかも今までと一緒なのに、目に見えない何かが今までとは決定的に違っていて、そのことに気づいた、気づいてしまった自分に無性に泣きたくなった。
そんなわたしに、フォンセは静かに話しかけた。
「ぼくは、吸血鬼なんだ」
逆光の中でわたしに向かいあったフォンセの顔は見えないけれど、きっと悲しい顔をしているんじゃないかと、根拠もないのにそう思った。
(知っていた、気づいてた)
「吸血鬼は、成人と同時にひとの感情を失ってしまう。吸血鬼同士の連帯感みたいなものはあるにはあるけど、吸血鬼以外のものに対してあたたかな感情を持つことが一切なくなる。――ひとを、無差別に襲うようになってしまうんだ」
――一皿だけのパンケーキ。ぼくはいいんだ、そう言って笑った顔。
(きづいてた、そんなこと)
「・・・・・・本当は、きみの血を吸うつもりだったんだけど、ぼくにはできないみたいだ。血を吸えばきみをぼくの仲間にできるかと思って調べてみたんだけど、吸血鬼に血を吸われたひとは死んでしまうだけらしいし、きみをぼくの食べ物にはできないから」
――銀色の十字架は吸血鬼を退ける。杯に湛えられたワインの赤は血の色だ。
(つめたい手。冷ややかなたいおん)
(でも、気づいたのは、それだけじゃなくて)
(彼はやさしいんだってこと、にも)
(ようやく、気づくことができたのに)
「だから、もう、ここには来ないで。ぼくがきみを襲ってしまう前に、ぼくの前からいなくなって。――お願いだよ」
言葉が、思いが、頭の中で浮かんでは消え、浮かんでは消えた。けれど、かたちになったものはひとつもなかった。
穏やかで、静かな翠の瞳。
夏の日差しの色がわたしを見ている。――この色がたまらなく好きなのに。
(――わたしは、ここにきちゃいけないんだ)
――見つめあったのがどのくらいの時間だったか、わたしは覚えていない。覚えているのは、ただ――胸がひどく痛かったこと、それだけ。
しばらくして、わたしは、やっとのことで言葉を絞りだした。
「・・・・・・約束する。わたしは、もう、ここには来ない」
「うん」
外から差し込む光が少し弱くなって、薄暗い部屋の中にフォンセの顔が浮かび上がった。そっと頷いた彼は、今までで一番辛そうな、でもどこか安心したような顔をしていた。
「――でも、」
わたしは顔を上げてにこりと笑った。
「でも、あなたのこと、忘れないから!」
「・・・・・・なんで、」
フォンセの顔が歪んだ。彼は泣きそうな顔をしていた。それを見てわたしは確信した。――やっぱり彼はやさしい。泣きたくなるくらいに。
(だからこそ、フォンセが語ったこの話は、紛れもなく本当なんだ)
「だってわたし、あなたのことが好き。だから、忘れたくない」
わたしは一気に言い切って、微笑んだ。
今までで一番きれいな笑顔を、わたしは浮かべられただろうか。
――彼の記憶に残るような、笑顔を。
「約束、ね」
――忘れない、この日々を。心の奥に抱きしめて。全部、ぜんぶ。
フォンセは長いこと黙っていた。やがてゆっくりとわたしの方に歩み寄ってきたかと思うと、わたしの掌にそっと触れて、そのままその冷たい手ですっぽりと包んだ。
体温がじわじわと奪われていく。けれどその感覚が、とても心地よかった。
「・・・・・・ぼくも、きみのことが好きだったよ。ずっと、ね」
過去形なのは、きっと彼なりの決意の表れなのだろう。そう思って、わたしはただ彼の掌をぎゅっと握り返していた。
屋敷に注ぎ込む秋のやわらかな光は、いつの間にか深い赤に変わりつつあった。それに気づきながらも、わたしたちはお互いに何も言わなかった。
ひんやりとした体温。つめたいてのひら。繋いだ手の不思議なあたたかさ。
パンケーキにシロップ、バター。わたしが気づいてしまったこと――彼のやさしさ。
きらきらした夏の日差しと、やわらかい秋のひかり、それを、
――わたしは、一生忘れない。
NOVEL
copyright@ Mitsuki Minato 2011- Since 2011.10.22.
|