王子と魔女



 この世界にとりの種類は数多いが、そのなかでも、ひときわひとびとの注目を集めてきたのは、セレナーデというとりだろう。

 セレナーデは、非常に珍しいとりで、その姿を見たものは、歴史を紐解いても両手の指で足りるほどだという。
 では、このとりが特筆すべき程に美麗なとりであったかというと、全くそうではなかった。僅かに残っている文献によれば、毛色はくすんだ灰色、嘴は黄土色。慎ましすぎて記憶に残らぬような外見である。
 その代わり、セレナーデが生涯に一度だけ歌うといううたは、この世のものとは思えないほどに妙なる響きであるとのことだ。そのうたは、万病を治癒し、冥界の淵に降り立った者をも此岸へと呼び戻す。
 そういう経緯があるので、古来よりセレナーデを追い求めるものは数多くあったが、手中にしたのはほんのわずかだった。
 さてここにある小国の王子が登場する。彼にも名前はちゃんと存在していたはずだが、伝わっていないので、ただ王子と呼ぶことにする。この王子、後で述べるが、ある事情により血眼になってセレナーデを追い求めていた。
 その王子によって、というよりはその有能な側近によって、明らかになったのは、セレナーデは、〈空の民〉と呼ばれる、小さな部族のひとびとが、一人につき一羽を所有していること。

 そして、〈空の民〉は、もうこの世に一人しか残っていないということである。

「というわけだ。お前のセレナーデを寄越せ」
「嫌です」
 即座の拒否に、王子は一瞬呆気に取られたように口をぱくぱくとさせた。断られることなど、端から予想していなかったらしい。
「……もう一度言うぞ。お前の、セレナーデを、寄越せ」
 一言一言区切って放たれる言葉にどすが利いているように思えるのは、きっと魔女の気のせいではない。だが、そんなことを気にするようでは魔女が務まるはずもない。よって、魔女は涼しい顔で言い放つ。
「ならばもう一度申し上げます。わたしのセレナーデを差し上げる気は、まったくございません」
「ならばお前の首を掻っ切ってからセレナーデを捜すまでだ!」
 真っ赤になって手近なものに魔女の処刑を言い渡そうとした王子に、王子の親友でもありこの国の宰相でもあった男がそろそろと近づいていく。
「畏れながら申しあげます、殿下。それは賢明な殿下にあるまじき短慮な所業かと存じます」
「なに?」
「聞くところによれば、〈空の民〉とセレナーデの魂は密接に結びついているので、〈空の民〉を害するようなことがあれば、同時にセレナーデをも失うことになりかねないそうでございます」
 その言葉を聞いて、王子は、怒りを収め、思案深げな顔になる。この王子、鼻持ちならないほどに尊大で、ときおり、いや、かなりの確率で、頭に血が上って短慮な行動に走ることがあったが、けして頭の出来が悪いわけではなかった。
「ふむ。なれば、代わりに、お前の望むものを何でも与えよう。金糸や銀糸をふんだんに使った絹のドレス、紅玉碧玉に金剛石や珊瑚。山と積んだ金や銀でも良いし、望むならばこの王宮での相応の地位を与えてやっても良い。お前は魔女だというから、めずらかな草木や異国の書物でも良いな。何が欲しい」
「いいえ、なにも」
 ふつうのおんなならば、いや、ふつうの人間ならば、目を輝かせて飛びつくような申し出に、〈空の民〉でもあり、魔女でもあったおんなは、一切の感情を交えずに、ただ、首を振った。
「わたしは長く生きすぎました。わたしの欲するものは、ただ穏やかな余生です」
「なればなおさら、王子にセレナーデをお譲りしても宜しいのではないでしょうか」
「いいえ」
 見かねて口を挟んだ宰相にも、魔女はただ、静かに首を振る。
「だからこそ、わたしは、セレナーデのうたを贈る相手を、慎重に見極めたいと思っているのです」
「わかったぞ。お前は、いつか自分が必要なときに、セレナーデのうたを使おうという魂胆なんだな」
 自信満々な王子の言葉に、魔女は、幾らかの憐れみを持って、王子を見返した。その静謐な眼差しにたじろいだのは、王子のほうだった。
「セレナーデのうたは、その持ち主には、なんの恩恵ももたらしはしません。セレナーデのうたを贈られるのは、セレナーデ自身が、ほんとうに大切に感じているものだけです」
 嘘をついているのかと疑うのが恥ずかしくなるくらいの、透明な眼差し。やや気後れを感じつつも、王子は問いを重ねる。
「お前は、宝石にも、地位にも、知識にも興味がないという。そうであるなら何故、そこまでセレナーデの歌を贈る相手に拘るのだ」
 魔女は、束の間、すい、と顔を上げて、初めてまともに王子と顔を合わせる。そして、誰に向けたともつかない、小さな溜め息をついた。

「セレナーデのうたは、いのちの代わりに、とても大切なものを、ひとから奪っていくでしょう」

「ですから、セレナーデを所有していても、誰にも贈らぬまま、その生涯を終える〈空の民〉は、実はとても多いのです」
 呆気に取られた宰相と王子を尻目に、魔女は、すたすたと部屋から退出していく。
「お待ちください、今のお言葉は、どういう意味ですか」
「そのままの意味です」
「まだ帰さぬぞ。お前がセレナーデを譲る気になるまではな!」
 強い語調に、王子の意志の強さを見て取った魔女は、はぁ、と今度は盛大に溜め息をつく。
「……お気持ちは変わらぬようですね」
 くるり、と振り返り、言葉を紡ぐ。
「では、まず、何故セレナーデのうたを望むのか、その理由を教えていただきましょう」



 魔女をその部屋に連れて行く間ずっと、王子は渋面を浮かべていた。彼にとっては魔女は取るに足らないような卑しい存在で、そもそも、そんな存在に慇懃にではあるが説明を要求されたこと自体、大いに彼の自尊心を損なう出来事であったのだ。そんな彼を懸命に説き伏せたのは宰相である。
「魔女様の決意は固いとお見受けいたしました。魔女様とセレナーデの結びつきが強い以上、事情を説明なさって、魔女様の関心を多少なりともお引きするのが、得策かと存じます。……もう、余り時間は、遺されていないのですから」
「……わかっておる」
 どうしてもセレナーデを逃すわけにはいかない理由が、王子にはある。その理由のある部屋の扉を、幾分やさしい手付きで叩くと、王子は魔女をその部屋に引き入れた。
 部屋の奥にある、天上から吊り下げられたカーテンで隠され、向こうが見えないようになっている寝台。さっとカーテンが開けられたとき、魔女は、ごく僅かに、顔を顰めた。
「これは我が妹、現在王国で唯一の王女だ。魔女よ、何ゆえ妹がここで寝ておるか、わかるか?」
 すい、と歩みでた魔女は、ごく近くで王女の顔を覗き込み、次いでドレスの袖をまくってその下に隠されていた肌に触れる。やがて、難しげな面持ちを浮かべた顔を上げた。
「紅い斑点、むくんだ手足、……ラプトゥルカ、親から子にのみうつる病でしょうか」
 ラプトゥルカは、市井のものはまず発症しない。だが、近親結婚により血が濃くなりすぎると、発症する確率が高くなってくる。紅い斑点やむくんだ手足はこの病の典型的な症状であり、この病に対する治療法は見つかっていない。発症すれば、ゆるやかに迫る死をただ待つしかなくなる。
「ああ、そうだ。……我らが、血の濃さを保つために、血の繋がりの強いもの同士での婚姻を繰り返していることは聞いたことがあるだろう。その結果が、これだ。我が妹の、惨状だ」
 王子は、妹に近づいて、その豊かな栗色の髪を、すい、とひと房、掬い上げた。王子の顔には、魔女に向けていたのとは似ても似つかぬ、不器用ながらも真摯な表情が浮かんでいた。
「発症してもう三年。もう……長くは、ないだろう。ただ、万病を治すうたがあると、臣下の者の噂話で耳にしてから、私は、必死でセレナーデのうたを追い求めてきたのだ。……どうだ、セレナーデを渡す気になったか」
 王子の顔に浮かぶ憂いの色が、紛れもなくほんものであることはわかる。けれど、魔女は、ふるりと首を振った。
「確かに、セレナーデであれば、ラプトゥルカを治すことも可能です。けれど、セレナーデのうたによって、助かりたいと思っているひとは、たくさんいます。過去にも現在にも未来にも。ですから、簡単に決めるわけには参りません。ですが、」
「ですが、なんだ」
 苛立ちをはっきりと顔に示した王子に対し、魔女は、ただ首を横に振って、答える気がないことを示す。顔に血が上った王子の手は、剣を帯びている辺りに伸びかけたが、魔女を殺しても自分の損になるだけだと気づいたらしく、足音荒く部屋から出て行った。
 残された魔女は、思案げな色をその幼いながらも端正な顔に載せた。
「少なくとも、」
 少なくとも、この王子が、たんなる私欲の為にうたを求めているのではないことは分かった。たんに尊大なだけの王子かと思っていたが、そうではなさそうである。
 だが、それがゆえに、いっそう複雑な事態になってしまったと、魔女は、再び深い溜め息を落としたのである。



 夕暮れ時、魔女はひとり、王宮で一番高い塔の最上階、王国を一望できる小さな庭園の中にたたずんでいた。色とりどりの花が咲き乱れ、真ん中には小さいながらも風情のある噴水が備え付けられた春先の庭園。魔女のいる少し後ろでは、ぶらんこが、乗るものもいないのに寂しげにきぃこきぃこと鳴っていた。
 美しい景色。しかし、魔女の意識は目前ではなく、別の場所にあった。
 そろそろ、セレナーデのうたを贈る相手を定めねばならないのは、わかっている。
(……わたしは、長く生きすぎてしまった)
 その一方で、自分が、〈空の民〉の最後の一人であることも、知っている。そして、セレナーデは、ほんとうに大切な相手にしか、贈られてこなかったということも。だから、救う価値のある人間だと、心から思えた相手を、救いたい。
 そんなことをぼうっと考えつつ、魔女は、眼下に広がる王国の景色を眺め始めた。紫水晶の瞳は深く、魔女が何を考えているか、何人であっても容易には汲み取れなかっただろう。
 だが、魔女が何を考えているのかなど全くお構い無しの人間が、ここにひとり。
「魔女、ここは、一般人の立ち入りは禁止されている」
 魔女がその言葉に腰を上げなかったのは、目の前の景色が美しかったからと、王子の声色が追い払うためのそれではなかったからだ。
「美しい景色ですね。わたしは長くこの国に生きていますが、この国がこんなに美しいなんて、思ってもみなかった」
「そうだろう、我が妹が、もっとも愛した景色だからな」
 なるほど、要するに、妹の愛した景色に見入っていたから、自分を咎めようとしなかったのか。そう思いつつ、景色に視線を戻そうとした魔女を、再び王子の声が遮る。
「しかし、お前、私よりもずっと幼いくせに、よくそんなことを言えるな」
「わたしは、何歳くらいに、見えますか」
「見た目は十三くらいだな。たいていの大人よりは、話す内容がしっかりしているが」
「わたしは、もう、五百年以上のときを永らえております」
 王子はまじまじと、隣に立つ魔女の横顔を眺めた。自分の肩にも届かないような背に、幼さの残る容姿である一方で、つやのある黒髪に濁りのない紫水晶の瞳、傷一つない白磁の肌を、魔女は備えていた。ふと、王子は、魔女がとても美しいのだということに気づいた。
 それを認めたくなくて、王子は、ふっと浮かんだ疑問を口に出した。
「魔法で老化を遅くしているのか」
「いえ。十四の誕生日から、わたしの成長は止まっております。死ぬときまで、ずっと、この姿のままです。魔女ですから、このままなにもなければ、あと五百年は」
 ふわり、風に魔女の髪が舞い散る。夕日に照らされた横顔が、王子には、何故だかひどく、孤独なそれに見えた。
「寂しくは、ないのか」
「いいえ? 寂しいと言う感覚さえ、もう忘れてしまいましたから」
「家族は」
 王子の追及に、魔女は遠い昔を懐かしむような目になった。
「弟が、ひとり、おりました」
 おりました、という言葉に、初めて王子は、魔女が永い永いときを過ごしてきたのだということを実感する。
「他の家族は、わたしが〈空の民〉であるのに、魔力を持っているからと、疎んじていたのですが、弟だけは別でした。いつもわたしを慕ってくれて、死ぬ間際に、わたしの瞳を、綺麗だと言ってくれて」
「……弟に、セレナーデを贈ることは、考えなかったのか」
「弟自身が、それを望んでいませんでした。それに、」
 ひたとこちらを見据えてくる瞳。吸い込まれてしまいそうだと、王子は、そんなことを思う。
「セレナーデのうたによって、いのちを救われることが、果たして当人にとって救いになるのか、わたしには、わからないのです」
 どういう意味なのか。問いかけた言葉を、王子は飲み込んだ。長く生き過ぎたからか、それとも〈空の民〉の最後の生き残りになってしまったからかは判らないが、余りにも儚い笑みが、魔女の顔には浮かんでいたからである。



「おねえちゃーん」
 最初、魔女はその言葉が自分に向けられたものだとは気づかなかった。腰に腕を回され抱きつかれて、ようやく、「おねえちゃん」が、誰を示すのかに気づいたのだ。
「……どちらさまでしょう」
「僕はね、王子様なんだよ」
 胸を張った小さな少年に対し、魔女は納得したふうに頷く。
「ああ、弟君ですか」
「おねえちゃんは、魔法が使えるって、あにうえがおっしゃってたよ。ねぇ、なにか魔法を見せてください」
 魔女は、瞠目した。この少年が、好意的な態度を見せているということは、王子は、当初より自分に対する態度を軟化させたということになるのではないだろうか。
「おねえちゃん、どうしたの?」
「いえ、なんでもありません。そうですね……では」
 なんともいえない感情を振り払うかのように、魔女は片手を軽く宙に掲げる。たったそれだけの動作で、魔女の手の中に一輪の薔薇が出現した。透き通るような青い色で、まるでたったいま野原から摘み取ってきたかのようなみずみずしさを備えていた。
 顔を輝かせた少年は、「ありがとう!」とお礼を言うと、今度は別の方向に駆け出す。
「あにうえー! おねえちゃんにこのお花を頂きました!」
「そうか、よかったな。あんまり走ると、転ぶぞ」
「大丈夫ですー」
 にこにこと笑いながら薔薇を差し出してくる弟の頭を、王子は二度三度、かいぐった。目を細めてその光景を見守る魔女に気づいたのか、王子が怪訝な顔になった。
「どうした」
「いえ、……すこし、思い出すことがあって」
「なぁに、おねえちゃん、どうしたの」
 魔女は束の間瞑目する。彼女が魔女だというだけで、〈空の民〉のみならず、普通の人間も彼女を忌避した。異なる存在であるというだけで、彼女は追われ、虐げられかけたことも幾度かある。
 ……こんなに、底抜けの好意を向けられたのは、何百年前になるだろう。
 けれど魔女は、孤独の根っこを見せようとはせず、ただ、笑った。
「こんなに、賑やかな場所で過ごしたのは、どれくらいぶりになるでしょうか」
 魔女の笑みに含まれたほんの少しの違和に気付いたのか、王子は弟に向き直る。
「ちょっと戻っていろ」
「なぜですかあにうえ」
「いいから」
「……はい」
 短いやり取りで弟を追いやった王子は、ふと、魔女に向き合う。
「〈空の民〉は、お前に対して、その、どのような態度を取ったんだ」
「さあ、どうだったでしょう」
 空とぼけた魔女は、また、空疎な笑みを浮かべる。
「わたしには、魔力があったので、ずっと魔女として過ごしてきました。森に住めば、それだけで、生きていくのに必要なものは手に入るのです。人と交わることも少なくなってきていて。家族のことはかろうじて覚えていますが、最近はもう、自分が〈空の民〉であることなど、殆ど忘れていたようなものです」
 嘘だ、と王子は思った。何故だかわからないが、魔女の言葉は真実ではないと、そんな確信があった。〈空の民〉であることと、魔女であること、その両方がいまの魔女を苦しめていると。
 ので、口に出す。
「忘れていたなど、ありえまい」
「いいえ、でも、そうですね、家族のことですと、ちゃんと覚えていることもあります。……わたしにも、ふつうの少女だったころがありました。自分に魔力があるなんて思いもよらなくて、父は優しく、母は賢く。しあわせな、時間でした。わたしに魔力があると分かってから、あっけなく崩れ去った日常でしたけれど、わたしにとっては、ほんとうに、大切な時間だったのです」
 まるで慰めを拒否するかのような笑みを前にして、王子は押し黙る。それから、ポケットをごそごそと探ると、探し当てたものを、ずい、と、魔女に向かって差し出した。
「やる」
 端的な言葉と共に、差し出されたものを、魔女はまじまじと見詰めた。王子の手の中に収まっているのは、もしかしなくともこの数百年のあいだ、自分には無縁だったものではなかろうか。
「これを、ですか」
 不思議そうな表情を浮かべる魔女の視線の先にあるのは、金糸をあしらった紫のリボンである。上品な光沢があるから、絹でできているのかもしれない。
「早くしろ」
 急かされて、魔女は、王子が予想していたよりもあっさりとリボンを受け取った。少しの安堵を覚えた王子だったが、その後の魔女の行動は、王子の予想から少々外れていた。
「すみません、世事に疎いもので」
 袂から櫛を取り出すと、手早く髪を梳かしリボンで結わえる。
 問題ない。まったく問題ない。むしろ当初の目的がこの上なく迅速に達成されて喜ぶべきなのに、なにかが間違っているような気がして、王子は不機嫌な声を出した。
「……なにをやっているんだ」
「え、長い髪は束ねろと、そういうことでしょう」
 途方もない脱力感に襲われた王子は、その場でしゃがみこむ。だが、なにしろ命令することに慣れすぎた彼なので、上手い説明など、思いつくはずもない。ひとしきり葛藤をした後、魔女の髪を見て、まぁいいか、と、王子は自分を納得させた。
 黒い髪に、紫色のリボンは、よく映えていた。



 それからしばらくして、魔女は、王子が妹と同じ病で倒れたと聞いた。空気を通しても、水を通しても、食物を通してもうつらない病は、ただ、血を通してのみ広まる。同じ血を共有するきょうだいであるから、王子が同じ病を発症してもなんの不思議もなかったのだ。
 妹が臥せっているのと同じ部屋、見舞いに来た魔女の前で、王子は弱弱しく呟いた。
「人間とは、儚いものだな。……私まで、同じ病にかかってしまうとは」
 緑柱石の瞳に、ふだんの尊大な色はない。ただ、懇願の色を湛えて、王子は魔女をじっと見据えた。
「だが、妹だけは。妹に、セレナーデを」
 その言葉は、王子の心からの言葉であると、魔女にはわかった。その一方で、声にならない叫びを聞いた魔女は、そっと目を伏せた。
(死にたくない!)
 今はもう目を閉じている王子は、妹よりもだいぶ症状の進行が速い。このままでは、数週間ともたまい。ひとの身で、死ぬのは恐ろしいだろう。まして王子はまだ若いのだ。それなのに、妹を優先しろというのは、どれだけの勇気がいったことだろう。
 傲慢で、鼻持ちならない王子だった。けして魔女を対等に見做そうとはしなかったし、魔女が願いを拒む理由を慮ろうともしなかった。
 けれど、魔女は知っている。ほんとうは、王子は優しいひとだ。でなければ、妹のためにこんなに必死になったりはしない。肉親同士蹴落としあう姿も、たった二人きりのきょうだいが殺しあう姿も、魔女は長い歳月の中で目の当たりにしてきたのだから。
 ……そして、王子は、数百年のあいだ孤独を生き続けた魔女に、不本意であったとしても、居場所と、家族めいたあたたかさを与えてくれたひとだ。
 追われるばかりの人生だった。疎まれるばかりの人生だった。彼は、魔女がもはや忘れきっていたようなあたたかさを、ほんの僅かであっても、魔女の日常に、加えてくれたひとだ。
 だから、魔女は決めた。祝いになるのか呪いになるのか、それは魔女には判らない。ただ、心が決まったから、そうするだけだ。
「愚かなものですね、わたしも。……でも、わたしは、もうじゅうぶん生きましたから」
 自嘲するかのような言葉を吐いた直後、自分が、髪に結ばれたリボンに手をやっていることに気づいた魔女は、僅かに、苦笑する。
「わかっていましたよ、王子。……これだけ長いときを、生きたのですから」
 弟が褒めてくれた瞳の色と、同色のリボン。それに、王子が不器用ながらも励ましを載せようとしていたことくらい、魔女にもわかっている。
「それと、ずっと申し上げる機会がありませんでしたが、」
 その部屋で意識があったのは魔女だけだったから、他のものは勿論、王子ですら知らなかった。
 魔女は、王子の顔を眺めながら、魔女と呼ばれる前に浮かべていたような、まるで、ふつうの少女のような、ふわりとした笑みを浮かべていたのだ。

「――ありがとう、ございました」

 そうして魔女はするりと部屋を抜け出し、確かな足取りで目的の場所へと向かったのだ。


 昼下がりの王国に、突如その音は響いた。


その音は、ひとびとがそれまで聞いたことのあるどんな音とも似ても似つかないものだったという。強いていうなら鈴のそれに近く、けれども、鈴よりももっと繊細で、まるで水晶のようにりんと透き通った音だった。日常の喧騒にかき消されそうなくらい小さかったのに、王国中の誰の耳にも明瞭に届き、また、その旋律を聞いたものは、誰もが、そうと知らずにはらはらと涙を落とした。

 音が止んでからしばらくして、病の床に臥せっていた老人は起きだし、産褥熱に魘されていた若い母親はぱちりと目を覚まし、流行り病にかかって医者からさえ匙を投げられた子供の頬は、見る見るうちに薔薇色に染まっていった。生まれつき盲いていた少年の目は開き、冬の間に雪で滑って骨を折った少女の足は、大地をしっかりと踏みしめた。
 王宮にいた王子も例外ではなく、気がつくと同時に妹の許へと走った彼は、数週間ぶりに彼女が意識を取り戻したことを知って歓喜の声を上げた。こんなに大きな効果をもたらすのならば、なぜ魔女は出し惜しみしていたのかと訝ったほどである。
「おい、魔女を呼べ。望む褒美を何でも取らせよう」
 けれども、王も王妃も宰相も騎士見習いの少年や侍女に至るまで、誰も魔女の居場所を知らなかった。痺れを切らした王子は、ひとりで、あの王宮で一番高い塔の上、王国を一望できる小さな庭園に向かう。何故か、魔女はそこにいるだろうという確信が彼にはあった。
 そうして庭園に向かった彼は、魔女の姿を探し始めた。けれどどこにも魔女は見当たらない。どこにも。
「おい、魔女」
 ぐるりと庭園を回って、やはり自分の見込み違いかと思った王子のつま先に、何か柔らかいものが当たる。普段の彼なら、そのまま盛大に蹴飛ばしていたことだろう。だが、そのときの彼は、久しぶりに気持ちが高揚していたこともあり、その柔らかいもののほうに視線を向けた。
 まだ温かい、けれど、ことりとも動かないそれは、ありふれたおんなのなきがらだった。顔を大地のほうに伏せているので、顔の造作はわからなかったが、絹のようにつややかな黒髪を見て、はっとした王子は、注意深く――どんなものに対してもしたことがなかったほど、やさしく、おんなの顔を王子のほうに向けさせた。

 金糸をあしらった紫色のリボン。その下で硬く閉じられた、もう開かない同色の瞳。

 気づいてしまえば、簡単な話だった。セレナーデとは、〈空の民〉自身か、でなければ彼らだけが持つ異能の名前だったのだ。生涯に一度だけ歌うというのも当たり前で、セレナーデは、万病を治癒する代わりに、歌い手自身の命を奪うのだろう。とりの名前だと伝えられていたのは、おそらくは〈空の民〉のいのちが無碍に奪われることのないように。御伽噺の中に巧妙に織り込まれた真実が、王子の目の前にあった。

 そして、セレナーデ自身がほんとうに大切に感じているものを救うということは、

 ――セレナーデのうたは、いのちの代わりに、とても大切なものを、ひとから奪っていくでしょう。

 その言葉の意味を、魔女の真意を悟ったとき、王子のこころに浮かんだのは悲しみでも切なさでもなかった。そんな言葉で表現しつくせるような生易しい感情ではなかった。ただ、ぽっかりと心に穴が開いたようで、他に何も考えることができない。
「     」
 呼ぼうとしても、王子は魔女の名前を知らない。魔女の過去も殆ど知らないから、どこに埋葬すれば魔女の意に沿うのかもわからない。
 そこまで考えて、ようやく、王子は、自分が傲慢だったことに気がついた。魔女の気持ちを思いやりもせず、魔女自身を深く知ろうともせず。
「だってお前は魔女だろう。卑しきものの名など、私が知る必要はない」
 違う。言いたいのはこんなことではない。
 もう、聞いても詮無いことだとわかっていた。それでも、訊ねずにはいられなかった。
「だが特別に訊いてやろう。お前の名は、なんというのだ」
 言って、王子は直ぐに、もし魔女が生きていたとしても、このような問いかけにはけして応えぬだろうと思った。気高く、超然として、いつもどこか遠くを向いていたおんな。生きていた間、一度も、自分の言葉に従おうとしなかったおんな。
 そうだ、あのおんなはただの一度だって従おうとしなかったのだ。なのに。
「……どうして、」
 あそこまで、自分の意に叛いておきながら。どうして、最後に。
「こんな愚かな男のために歌ったのだ!」
 こんなときまで、居丈高にしか叫ぶことができぬ。請うて答えを得ることができるなど、王子は知らなかったし、知ろうとしなかったのだ。けれど心情をうまく言葉に出来ないのがこんなに辛いと知っていたなら、妹を救う代わりに彼女を失うと知っていたなら。
「頼む、」
 どうか、どうか願いが叶うなら。
「もう何もいらないから、歌えなどとは言わないから。どうか、戻ってきてくれ」
 王子は、自尊心も傲慢さも何もかも投げ捨てて、衣服が土に塗れるのにも構おうとせず、大地にひざまずく。
 余りにも長く生き過ぎたせいで、誰からも省みられることのなくなっていた魔女は、その腕の中で、静かに彼女を慕っていた影たちの中に旅立っていったのだった。


 今ではお伽噺としてしか語られることのない、最後のセレナーデの持ち主であった魔女と、小国の王子のものがたり。セレナーデが歌ったことで、多くの命が救われ、渋る魔女からセレナーデを手に入れた王子を、ひとびとは心から褒め称えたという。


 しかし、――感謝の渦の中で、王子の眼にひっそりと光っていた涙の意味を知る者は、誰一人としていなかったのである。



NOVEL
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