――いい、キセ。笛はあなたの喉だと思いなさい。手荒に扱えば、けっししていい音はでない。けれど、大切に扱えば、あなたが考えるよりも先に、あなたの思いを音にしてくれるわ。

 村一番の笛の名手との呼び声が高かったひとを母にもったおかげで、キセは幼い頃から母を独占するのを我慢することを余儀なくされていた。夫を早くに亡くした母の、二児の母とは思えないほど若々しい美貌は多くの若衆を惹きつけたし、母はまるで自分の喉であるかのように笛を歌わせたから、その技巧を身につけたいと母の元にやってくる童たちは跡を絶たなかったからだ。
 それでも、折りに触れて母はキセとフウリを構っていたように思う。時には手ずからふたりに笛と歌の指導を施した。

――フウリは歌が上手ね。キセは笛が上手いわ。

 村中の尊敬を集める母に褒められたのが嬉しくて、幼いふたりは懸命に歌と笛の技を磨いた。殊に、キセは普段母を独り占めできない分、母から笛を教えてもらうときには、童らしからぬ集中力で持って、母の話に聞き入っていた。
 しかし、キセは成長するに従い、母と共にいるよりも同年代の少年たちと行動を共にするほうを好むようになり、興味を持つものも広がっていった。その結果、愛用の笛に触れる回数も、月に一、二回ほどに減っていた。
 母はそんなキセに何も言わなかったけれど、ときたま寂しそうに自分を見つめていた瞳の色は、よく覚えている。フウリに母がかわいそうだと窘められることもあったけれど、どうしても、いつも一緒にいる母よりもなかなか遊ぶことの出来ない友人のほうを優先してしまいがちだった。
 その前提が根底から覆ったのは、つい昨日のこと。

――村全体を襲った流行り病で、母は呆気なく命を落とした。


「今回のこと、心よりお悔やみ申しあげる」
「いいえ、母もこれほど多くの方に惜しんでいただけて、きっと本望だと思います。生きていた頃より、人の役に立つことを何より喜んだ人ですから」
 姉と村長(むらおさ)が型どおりの挨拶をこなしている横で、キセは膝を抱えて蹲っていた。力なく体の脇に垂らした左手には、使い込んだ笛が握られている。
「それで、」
 話の流れが変わることを敏感に察知してびくりとからだを震わせたキセは、続く村長の言葉に睫毛を伏せた。
「此度の水霊送り(みたまおくり)のことだが、ユナが逝ってしまった以上、新たな笛使いを決めねばならん」
 やはりか。内心で呟いて、キセは溜め息をつく。この先の展開が読めぬほど愚かではない。
「でも、僕じゃ、できません」
「しかし、キセ。ユナの笛の技を一等よく受け継いでいるのが誰か、お前が誰よりもよく知っているだろう」
「それでも、未熟な技で母の音を汚すわけには、いかないんです」
 頑なな態度で言い張ると、長もしばらく食い下がっていたが、半刻に渡る言い争いの後、キセを説き伏せるのは難しいと理解したらしく、もう少し良く考えるようにとの言葉を残して、姉弟二人きりの家を辞去していった。


――ひとは海からやってきて海に還る。

 キセの住む村では、死者を水葬にする慣わしとなっていた。月が浮かぶ夜に、舟のかたちをした棺に死者をいれ、海に向けて流す。死者の魂が迷わず海に帰って次の生を歩めるようにするためだ。
 しかし、死者のすべてが今生に未練を残していないわけではない。人によっては、死んだはずの人物が思い人や子供の後ろにいるのを見たという者までいる。
 そういった未練や悲しみを鎮める為に選ばれるのが、笛使いだ。普通、笛使いは村で一番笛を巧みに扱うものが選ばれ、ユナは十になったときからずっとこの役目を全うしてきたのだという。
 笛使いなくして、水霊送りは出来ぬ。
 けれど、キセは笛使いになるのを全身全霊で拒んでいた。母を蔑ろにしていた自分が母のあとを継ぎ笛使いになるなど、母に申し訳が立たないと思ったからだ。
 村長を見送ったフウリが、軽く肩を竦めるとキセの正面にやってきた。身を屈めて視線を合わせてくる。
「キセ、水霊送りって、なんですると思う」
「死者を弔うためでしょ?」
「そうだね、あたしも、少し前まではそう思ってた」
 リシャが亡くなるまでは。そう続けられて、キセははっとして姉の顔を見上げた。
 リシャはフウリの親友だった娘で、ユナとも仲が良かったし、キセも面識くらいはあった。去年の冬、彼女は骨を折った父の為に雪の山に薬草を採りに行き、そのまま帰ってこなかった。
 どんなに寒い朝でも、山の麓まで通ってリシャが降りてくるのを待っていたフウリの後姿を覚えている。春になって山の雪が融けるとすぐに、リシャの両親よりも、誰よりも早く山に登ってリシャを探したフウリの姿を。
 そして、日が落ちてから独りで家の裏で泣いていたフウリの声を、覚えている。
「あのこを亡くしたとき、あたしは随分考えたんだよね。あのこは亡骸が見つかっていないから、水霊送りができない。いつまで経ってもあたしの中の整理がつかなくて、辛かった」
 そうか、姉は親しい人をこの一年のあいだに立て続けに失くしているのか、と改まった気持ちでフウリの横顔を見詰めた。
「それで思ったんだよ。水霊送りは建前としては死者の魂を鎮めるためのものだし、確かにその面もあるんだろうけど、一番は、残された者が気持ちの整理をつけるためのものなんだろうって」
 あんたはどうしたいの。フウリは無言でキセに問いかけてくる。その眼差しは強く、キセに逃げることを許さない。
 暫くフウリはキセの言葉を待って、それでもキセが何もいえないでいると知ると、少しだけ眼差しを和らげた。
「キセの気持ち、ぜんぶわかるとは言わないよ。でもキセが、母さんに申し訳ないと思ってるから、笛使いになるのを拒んでるってことくらいは、あたしにもわかってる」
 押し黙ったキセに、フウリは辛抱強く続けた。
「でもね、死者は語らない。あたしにも、キセにも、ましてや他の誰にも、母さんがどう思ってるかなんか、わからないんだ。だから、キセが悔いのないようにすればいい。キセは、母さんの魂を鎮めたくないわけじゃないんだろう?」
「それは、そうだけど、でも」
 キセの言葉を片手を挙げて遮って、フウリは続けた。
「あたしとしては、これを初めに聞きたかったんだけどね。――母さんは、あんたが役目を継いで、責めるようなひとだった?」

――キセ、また笛が上手くなったね。

「――ううん、違う」
 ひとつ間を置いて断言すると、フウリは微笑んだ。
 キセはすっくと立ち上がる。もう心は決まっていた。
「じゃあ、いっておいで」
 キセの家と長の家は隣同士だから、すぐにつく。
 長の家に駆け込んで息を荒らしたまま宣言する。
「僕、なります。笛使いに」
 長は驚きに目を見開き――直に微笑んだ。
 
 水霊送りは、ユナの死から三日経った日に行われた。ユナを始めとする流行り病の犠牲者たちの遺体が、ひとつずつ丁寧に棺に収められていく。
「キセ」
「うん」
 最後に母の棺が川に浮かべられると、キセはゆっくりと笛を口に運んだ。慎重に笛に息を吹き込めば、驚くほど澄んだ音がでた。フウリたちが笛にあわせてうたう歌が聞こえる。

――水よ。我らを慈しむ水よ。
――どうか、哀れなる人の子を、次なる生へと導いておくれ。

(ああ、そうだ)
 笛を始めたのは、純粋に笛を吹くのが楽しかったからだ。笛から離れていた歳月、母がキセに無理強いをしようとしなかったのは、――キセに、心から楽しんで笛を吹いて欲しかったからだ。
 それなのに、キセが、母に申し訳ないという理由だけで笛を吹かないのは――それこそ、彼女への冒涜だ。

 キセはふと顔を上げて、視界から消え去ろうとする母の棺に視線を移した。

 白い月明かりに浮かびあがった母の死に顔は、とても美しかった。

(か あ さ ん)

 笛を握ったまま、勢いよく地面を蹴った。フウリが自分を呼ぶ声が聞こえたが、キセは構わず走り続けた。
ざっざっざっざ。いつのまにか足の下は砂利になっていた。何も纏っていない裸足に小石が食い込む。疾走に慣れていないからだは、暫く走っただけで悲鳴を上げた。
 ぱっと視界が開けたところで、キセはようやく立ち止まった。口の中に血の味が広がり、それ以上立っていられなくて地面に座り込んだ。
 白い月が、あたりを照らしていた。今宵は満月だ。
 視線を移すと、丁度ユマを乗せた船が川から海へ流れていくところだった。

「み、水よ、」

 やっとのことで喉から絞り出した声は、自分のものとは思えないほど細く震えていて、それでもキセは、うたを口ずさんだ。

「水よ。我らを慈しむ水よ。どうか、哀れなる人の子を、彼の者の愛する子らの住まう楽土へ、導いておくれ――」

――うたうときは、腹から声を出しなさい。喉を痛めないように。


「彼らの魂を、鎮めておくれ」

 歌い終えれば、母を乗せた棺が、月光に照らされて海の上でたゆたって行くのが見えた。ゆらゆらと揺れながら、棺は小さくなっていく。やがて棺が視界から完全に消えるのを確認したキセの頬を、一筋の涙が伝った。






NOVEL
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